
コロナ禍で家族葬が主流になっている。島田裕巳氏の『葬式は、要らない』はその先取りだったかもしれないが、「葬式は必要~有縁社会をめざして」と反論したのが玄侑(げんゆう)氏。「葬儀という儀礼の持つ力で、ご遺族がある種の目覚めを体験し、踏ん切りをつけて歩み出すきっかけにしてほしい」からだ。それが葬儀の社会的側面である。
葬儀社を経営し、上智大学グリーフケア研究所の客員教授でもある一条氏は、「葬儀は悲しみを発露し、しかも何かしらそこから力を得る場でもある」と同意する。家が浄土真宗の評者は葬儀で「白骨の御文」を聞き、幼いころ祖母とお寺に通ったのを思い出した。
孤独死が増えた今は無縁社会とされるが、仏教が説くのは有縁。人とのつながりの中で生きているのが、社会的動物である人間の実態だ。葬式で集まり、悲しみを共有する機会が減ると、ますます無縁になってしまう。
玄侑氏によると、ブッダは自我など「単独で不変の自性」を認めず、「無我説」を唱えた。「関係性のなかで変化し続ける状態」が「空」で、人の感覚器と脳で捉えられたその変化の一部が「色」だという。科学的に説明すれば、「死は粒子から波への移り際と考えることもできる」と。一条氏は、「色は式に通じ、儀式のことで、それは目に見えない『縁』と『絆』を可視化するものだ」と言う。
玄侑氏は民俗学者・柳田国男の説から、日本人の死後のイメージは、まずホトケになり、一定期間後に「祖霊神」になるというもので、「ヒトがホトケになり、やがてカミになってこの世に出入りし、またヒトが生まれるので、循環している」と語る。それが縄文時代から続く日本人の代表的な死生観であろう。何より、そう思うと安心できる。 葬儀の仕方は変わっても、死とどう向き合うかは避けられない問いである。






