
初めての歌集『サラダ記念日』がベストセラーになり、目の回るような忙しさにあった著者が、恩師の佐佐木幸綱に言われたのは「君は、心の音楽を聴くことができる人だから、何があっても大丈夫」。そう、詩は心の音楽を言葉にしたものなのだ。
本書は、著者と言葉との出会い、大学で言語学を学ぶ長男の生育と言語の発達など、生きることと言葉との関わりを、暮らしに即してつづっている。
古来、漢文は仕事のため、短歌は心を通わすため、それぞれ重んじられてきた。人は気持ちが通じないと協働できないからだろう。文字を持たなかった日本人は漢字を見て、それで自分の心を表現できると思ったに違いない。
心は言葉にして初めて分かるものだから。そして、紡がれた言葉を反芻(はんすう)しながら、人の心は成長していく。評者も高齢になって、自分なりの言葉を探し求めるようになった。
歌集『アボカドの種』の最後に載せたのは「つかうほど増えてゆくもの かけるほど子が育つもの 答えは言葉」。だから、スマホなどの電子機器は使い過ぎない方がいい。それより人とのコミュニケーションから学ぶことの方がはるかに多い。スマホ依存の若者を見るにつけ、心は育っているのかと心配になる。
もちろん、言葉で表現できるのは一部にすぎず、どう理解されるかも人によって異なる。その意味から、歌会で感想を語り合うのがいい。恋の歌は青春の特権ではないとして、著者が選んだ知人の歌は「『どうだった? 私のいない人生は』聞けず飲み干すミントなんちゃら」。50年ものの恋を歌えるのは高齢者の特権だ。
外国人は日本の新聞に歌壇、俳壇の欄があるのに驚くという。古代から「言霊の幸(さきは)ふ国」は、今や詩の幸う国なのだ。そのことをもっと誇りに思い、自分の心の音楽を言葉にする日々を大切にしたい。
多田則明
新潮新書 定価1034円