
何となく、そばに置いておきたい本、である。本書に収録されている81編のショート・エッセーは、3㌻弱で、しかも8×5㌢の関係写真付きである。全体が、第1章「時刻表から読み直す、あの事件」、第2章「皇族も政治家も、みんな鉄道を使っていた」、第3章「作家が愛した線路」、第4章「あの日の駅弁、思い出の車輛」、第5章「旅情の記憶」となっている。
何処から読もうかと迷うほど、ぞくぞくとする内容である。著者は1962年生まれであるが、戦前、戦中、敗戦直後、戦後の「あのとき」は、根拠薄弱な伝聞などといった噴飯ものではない。実証的な内容である。
私は、第2章と第3章に注目した。この二つの章に挙げられている「あのとき」はやはり面白い。私は、昭和をもっと知りたい。今年は昭和100年、その意味でも自分なりに昭和を総括してみたい。
本書の中から、5点ばかり「あのとき」を紹介しよう。
昭和20年3月、東京空襲後の深川区内を視察中の天皇を偶然見掛けた作家の堀田善衛の感想。昭和20年1月、京都の仁和寺に隣接する陽明文庫の奥の茶室で、降伏によって危機に直面するであろう天皇の立場に関して高松宮と近衛文麿の密談。
昭和20年3月、45歳の作家の吉野せいが会津若松の歩兵第29連隊員として出撃準備中の息子に会うために長い汽車の旅をしている途中の駅で、彼女の真向かいの空席に無言で腰を下ろした出征兵士と語るささやかな悲しい話。
大正12年、関東大震災直後、自宅が全壊したために、両親と緊急避難した国府台の兵舎での兵隊たちの衝撃的な光景を目撃した少年時代の社会学者、清水幾太郎。
昭和37年『悲の器』で文壇デビューを果たし、39歳で夭折(ようせつ)した中国文学者で孤高の作家、高橋和巳が国家権力に弾圧された教団を描いた『邪宗門』と神部駅。
本書が提示する「あのとき」が四方に広がるようである。
法政大学名誉教授・川成 洋
朝日新書 定価990円