
江戸幕府は元和元(1615)年、豊臣秀頼を大坂城で滅ぼした2代将軍徳川秀忠が一国一城令を出した。一国に大名が居城あるいは政庁とする城郭は一つに限り、その他は全て廃城にするという大名統制令。直後に出した武家諸法度(ぶけしょはっと)では新城建設、居城の無断修補を禁じた。
城と陣屋は明確に区別された。陣屋とは天守閣や石垣の使用が禁じられている無城大名や3万石以下の大名の屋敷である。これは西国の外様大名の軍事力軽減が主たる目的であった。織豊期に、3000近くあった城郭は、陣屋を含めて300に激減し、その結果、家臣団の城下町集住が進むことになった。
城の軍事的機能は次第に薄まり、城郭を中心に大名屋敷や上級家臣の屋敷がその周囲に形成されてきた。それを囲むように中・下級家臣の生活の場となる侍屋敷、さらにその外縁部に町屋地区や寺社地が配置された。
城内の村落は城外に移転させられ、一般人が城郭内に入ることはまれとなっていった。このようにして、今日われわれが目にする「城下町」が次第にできてきたのだった。
戊辰戦争(1868~69年)が終わると、いち早く城下町を軍事的な要塞(ようさい)や基地として注目したのが陸軍であった。明治4(1871)年、廃藩置県で旧大名は東京居住を命じられ、半ば空き家となった城郭や陣屋は兵部省の管轄となった。翌年、陸軍省築造局は、全国305府県の旧城郭を軍隊が使用する存城か民間に払い下げる廃城にするかを決定する調査を開始した。
東京、仙台、名古屋、広島、熊本に歩兵4箇連隊、騎兵・砲兵・工兵・輜重兵(しちょうへい)の特殊部隊で編成される鎮台(ちんだい)が置かれた。
廃藩により侍人口の激減や侍屋敷の荒廃に直面する旧城下町は、経済効果を目論(もくろ)んで軍隊の誘致運動を巻き起こし、かなりうまくいった。これが第2次世界大戦終結を契機に多くの場合は公的な施設に転用されている。
評論家・阿久根利具
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