
子規について司馬遼太郎は『坂の上の雲』で「俳句、短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖になった」としている。
「余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入にともなって甚だしく混乱した。
その混乱が明治三十年代に入っていくらかの型に整備されてゆくについては規範となるべき天才的な文章を必要としたという。
漱石も子規もその規範となったひとびとだが、かれらは表現力のある文章語を創るためにほとんど独創的な(江戸期に類例をもとめにくいという意味で)作業をした」と解説している。
ここでの江戸期とは、大河ドラマ「べらぼう」の元禄時代で、武士や町人が身分を超え、狂歌で言葉遊びをする中、日本語が進化した。その一つが俳句で、その後、形式化した俳句を子規は革新した。
つまり、江戸、明治の二つの時代を経て、今の日本語は形成された。本書は、その子規の言葉を、年齢に応じて拾いながら書かれた評伝である。
司馬が秋山真之(さねゆき)を知ったのは子規を通してで、同じ文学の志を持ちながら、軍人になるため下宿に置き手紙をして去っていく真之に、「目に痛いほどのおもいをもって明治の象徴的瞬間を感じた」と書いている。
その心的情景を描いたのが同書となった。
日本史に例外的な明治の30年を、松山に生まれた3人の若者の物語として書いたのである。
日露戦争の奇跡的な勝利により日本はロシアの植民地になることを免れたが、子規らによる文章日本語の革新の恩恵は、あまり知られていない。
ロシアの脅威が高まる今、その歴史的意味を再認識したい。
高嶋 久
岩波新書 定価836円