
聖武(しょうむ)天皇の命日とされる5月2日、東大寺で聖武天皇祭が営まれた。大仏殿での法要は外国人を含む多くの観光客が見守り、聖武天皇の発願(ほつがん)で造立された大仏の国際的な開眼(かいげん)供養をしのばせていた。
聖徳太子が目指した仏教立国は聖武天皇によって概成したとされるが、当時の仏教は単なる宗教ではなく、インド・中国から伝わった学問や建築、美術、芸能などを含む文化の総体であった。
3世紀中頃から400年続いた古墳時代を終わらせたのも仏教で、権威の象徴が古墳から寺に代わったのである。中央のみならず地方の豪族が競って寺を建立した。神道は寺にならって社を建て、仏像に似た神像を作った。仏教は日本という国のかたちを形成していったのである。
日本初の唐風の王都である藤原京を奈良北部の平城京に移した聖武天皇は、他にも難波京と泉川(木津川)を挟む地に恭仁京(くにきょう)を造営している。これは当時、洛水(黄河の支流)をまたいで造営されていた唐の洛陽城を模したもので、こうした複都制は天武天皇の時代からあった。
さらに天武天皇は近江の紫香楽(しがらき)にも宮を設け、大仏造立に取り組んでいる。それを諦めたのは山火事や地震のためで、最終的に東大寺境内に造られた。
奈良国立文化財研究所で発掘に携わってきた著者は、遺跡を通して都造営のプロセスを明らかにしている。担当した造営司は、遣唐使や僧らが唐から持ち帰った情報を基に、都城や寺、大仏の造営に取り組んだ。それに協力したのが民間の僧ながら大僧正に取り立てられた行基で、信仰でつながった多くの職能集団を抱えていた。
「彷徨(ほうこう)五年」と言われるほど聖武天皇が各地をさ迷ったのは気弱だからで、強気の光明皇后が叱咤(しった)激励したとされる。正倉院に残る筆跡からもそう想像できるのだが、はて?
多田則明
吉川弘文館 定価2640円