
実に興味深いテーマである。我々の日常語の深淵(しんえん)に近づくと思っただけでうきうきとするではないか。それも仏教語とは。
仏教語となれば、比較言語学では、古代語の代表例として「印欧語」の中の「欧」のフェニキア文字と双璧の「印」は、サンスクリット語である。
紀元前2世紀ごろ、中国の前漢の時代に、中国から西域・インド最北部を通りローマへと至る通商路であるシルクロードを経て、「東アジアにもたらせたサンスクリット語の仏教写本は、わずかであるが、日本にももたらせており、法隆寺、京都の百万遍知恩寺、高野山などに、ネパール系写本よりも古い時代の写本が遺されている」「仏典の中国への伝播と中国語訳(漢訳)された仏典が私たち日本人の文化に多大なる影響を与えてきた」。
こうして、我々が使用する現代日本語における仏教用語由来の言葉は、漢訳仏典由来のものが多くを占めているが、日本独自の文化の中で、新たな意味が付加されることもある。
本書に掲載されている仏教語は、205語。ほぼ1語1ページ(稀(まれ)に2ページ)、「意味」「語源」「用例」の順で解説している。
・我慢――耐えること、抑えること、類義語に忍耐や辛抱があるが、語源となる仏教語の我慢(驕(おご)ること)とは正反対の意味。江戸時代後期に現在の意味で使われている事例を確認できるが、その原因は不明である。
サンスクリット語のアートマ・マーナ、アミス・マーナ、アハン・カーラの訳語。いずれの原語も驕りや自惚(うぬぼ)れの意味である。語源的な用例では、弘法大師空海の『吽字義(うんじぎ)』に「我慢の須弥(しゅみ)に頭頂なし」とある。須弥とは仏教世界で中央に聳(そび)える最高峰の山で、際限なき驕りの例えである。
・道場――釈尊(しゃくそん)が悟りを開いた場所。サンスクリット語ゴボーディ・マンダであり、悟りを開いた場所、漢訳語には道場のほかに「菩提座(ぼだいざ)」、「道樹下」などがある。
法政大学名誉教授・川成 洋
丸善出版 定価4840円