現象学とは、「現れ」をどう「認識」したかを問う学問で、あらゆる哲学の根本問題だという。著者は「世界とかかわる私の経験の仕組みを解明し、日常の事柄に新しい視点を与え、身近な他者ともう一度出会いなおす試み」と説明する。それなら、哲学者でなくても関心が向く。
老齢になって思うのは、私たちは日々の経験や出会いを取り込みながら、私という存在を形成していること。生物学者の福岡伸一氏は、それを「流れ」と表現している。固定的な自己などないという意味で、仏教の思想に近い。
しかし、単に流されているだけでなく、何らかの主体性は働いており、それをフッサールは「志向性」と呼んでいる。AIの草創期に脳科学者から、人の認知には漠然と現象を眺めるのではなく、ある一点に「注意」する特質があると聞いた。確かに、テーマを持って暮らしていると、向こうの方から情報がやってくるようなことを体験する。
それが人間の自己形成に関係しているのだろう。
古い友達と昔のことを話すと、同じ現象でも認識が異なることに気付く。それは、SNSなどで日々の出来事への反応を見ても、人によってどうしてこんなに違うのか不思議なのと同じで、まさに世界は誤解に満ちている。
それについてフッサールは、自然的経験を一時停止し、超越論的還元をするよう勧めている。
要するに自分を相対化することで、それなら日常生活にも取り入れられる。
現象の認識は記述されて初めて記憶となる。その作業を、脳は睡眠中にしているという。記述は映像もあるが主に言葉によるので、自分の言葉を獲得することが課題になる。
フッサールは自己解明としての現象学も論じているが、要はどう自己表現するかで、それが正しく行われれば、他者との関係も改善されよう。
高嶋久
ちくま新書 定価1034円





