
2008年に浅草寺で開かれた世界仏教徒会議で、座禅の精神療法をきっかけに禅宗の僧になった外国人参加者の多さに驚いたことがある。そこで旧知の曹洞宗の僧に、「瞑想(めいそう)と座禅は同じか」と聞いたところ、「違う」との返事。
しかし、総持寺で新人僧の教育責任者になった彼は、米国から禅カウンセリングを導入して修行でのいじめを防ぎ、住職として檀家(だんか)と付き合うスキルを上達させたと評価された。
1970年代から欧米で流行した仏教モダニズムの中で育ちながら、欧米の仏教理解を完璧に批判したのが本書である。
仏教が科学と親和性があるのは、明治期の進化論導入に抵抗がほとんどなかったことでも明らかだが、仏教の側から仏教は科学だと主張する必要はないだろう。
例えば、座禅時の脳波を測定し、α波が出てセロトニンが分泌されるから信じる、というのはない。信じるのは「救い」があるからで、治療のためではない。つまり、本書はあくまで仏教モダニズム内の問題なのだが、著者の批判が深く、かつ広範なので、結果的に仏教理解を促す内容となっている。
「無我」を唱えたブッダは「自己」はないと考えていたとされるが、記録によると、それを聞かれたブッダは何も答えていない。
ブッダが教えたのは、何かを誤って「自己」と同一視することで、形而上学的な問いは拒否している。それは、死後の世界はあるかと聞かれた弟子への返答と同じで、ブッダの思考の基本姿勢が貫かれている。
大事なのは仏教から何を学ぶかで、主体は今を生きる私にある。よりよく生きるための実践法を学ぶことに意味があるので、先人の言葉を信じることではない。
宗教への基本姿勢を教えている意味で、仏教はまっとうな宗教であり、教祖なり宗祖なりの教えを鵜呑(うの)みにさせようとする宗教とは異なっている。(藤田一照・下西風澄監訳)
多田則明
Evolving 定価2970円