
フリーの事件記者が主人公。メディアに関わる人間であれば、似た立場に置かれるし、同じ苦渋を味わうに違いない。「記者クラブ」という特権を有している大手メディアでない媒体にとっては、親和性があると思える。
東京の下町・亀戸(かめいど)で通り魔による殺傷事件が起きる。3人が犠牲となり4人が負傷した。その場で逮捕された犯人は「死刑になりたい」と叫んだ。昨今、実際に類似の事件が起きている。問題提起が本書の狙いだろうと察せられる。
フリー記者の安田賢太郎は、その時、隅田川で息子と2人で釣り糸を垂れていた。離婚した元妻から許された月一度の交流だ。だが、弾む会話はなかった。実は、安田は重いトラウマを抱えていた。それは自身の子供時代にあった出来事に由来した。これらの人間関係と体験が、通奏低音のようにストーリーの背後で静かに響き続ける。
付き合いの長い雑誌の編集者からあった「これ(亀戸の事件)取材できる?」の一報で、安田は行動を起こす。親子関係よりも仕事を優先する生き方しかできなかった。
取材の突破口を開くのは簡単ではなかったが、長年のキャリアを駆使して取材源に迫っていく。安田が追い続けたのは、「犯人の素顔とは」だった。極悪非道だけではない何かがある――そんな「違和感」を抱き続ける。犯人の友人や知人らにインタビューを重ねるうち、知られざる「顔」が徐々に見えてくる。
それをまとめた原稿が雑誌に掲載されると、思わぬ非難の嵐にさらされる。「犯人をかばうのか」と。いかにも現代社会の風潮である。さらに模倣事件まで発生してしまう。既存のジャーナリズムとSNSの共生とのすみ分けを問いつつ、家族や同業者との関係性を考えさせる。
汽水域とは、淡水と海水が混じり合う所。著者はこれを「善悪」に重ね、人間はそこで「漂っている」と結んだ。不安定な社会を憂えるように。
岩田 均
双葉社 定価2090円