
インドでヒンドゥー教の世界大会に参加した折、聖者に日本の仏教徒だと言うと「おまえもヒンドゥー教徒だ」と歓迎された。仏教の最後に現れた密教はヒンドゥーの神々を吸収したが、ヒンドゥー教では仏教を吸収し、釈迦(しゃか)はヒンドゥーの神ヴィシュヌの化身の一つだとしている。ヒンドゥー教の源流がバラモン教で、マヌ法典はその社会規範。
マヌは人類始祖で創造主ブラフマンの子。聖賢たちがマヌから聞いたすべての人の規範について記し法典とした。読むと、ガンディーの非暴力の原点となったアヒンサー(不殺生)や業・輪廻(りんね)・解脱(げだつ)・地獄・因果応報など、現代インドや仏教の思想にも生きている。インドは多民族、多言語、多宗教の国だが、8割はヒンドゥー教徒である。
興味深いのは罪と汚れ、浄・不浄の概念が神道に似ていること。殺人や窃盗、飲酒、姦淫(かんいん)などの罪を汚れとして実体化し、その清め方を事細かに解説している。例えば殺人の場合、森の小屋で死者の頭蓋骨(ずがいこつ)を目印に12年暮らす、武器を持つ者の標的になるなど、いわば刑罰である。そして、罪を犯した者も、罪の除去により罪なき者になる。罪を「贖(あがな)う」という考えはなく、キリスト教の原罪思想とは真逆の罪観・救済観である。
ヒンドゥーの神々を吸収したほど神信仰と親和性のある仏教は、日本に来て神道と融合した。キリスト教のように神々を下にはしないで並立させ、ついに本地垂迹(ほんじすいじゃく)説のようなアクロバティックな論理を生み出した。おかげで私たちは神仏を対等に崇敬している。これも深い思索が生んだ古代インドの知恵の恵みといえ、共感する部分が多い。
今の世界の惨状は一神教文明と、それに乗った資本主義の末路ではないか。世界にはそれとは別の社会があり、日本もそこに属していることを思えば、分断を克服する道が見えてきそうな気もする。
高嶋 久
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