
コシヒカリの田植えの4月14日には「耕し続けるのが人生か」の言葉があり、「耕」の書が躍動していた。文には「いつ終わるとも知れず、効果もよく見えない真摯な営みである。思えば耕すこと(cultivate)から文化(culture)は生まれた。耕し続けるのが人生か」とある。そう言えば、「べらぼう」の蔦重が平賀源内からもらった書店の名は「耕書堂」だった。
思い出したのは20年前、母の介護で実家に帰り、集落営農に参加して、農作業を始めたこと。延々と続く単調な作業に、何の意味があるのか悩んだ。そのうち、これは修行だと思えばいいと考えた。
修行も単調だから。続けているうちに、少しずつ楽しくなってきた。作物や草、土地が語り掛けてきたからだ。ふと、これが仏教が求める「梵我一如(ぼんがいちにょ)」かと思った。
芥川賞を取った翌年、福島県三春町にある著者の寺を訪ねたことがある。ちなみに梅と桜と桃が一緒に咲くから三春町。滝桜で有名だが、「うちの寺にもあるよ」と見事な桜を見せてくれた。町中に滝桜の子供を増やしている、住みたくなるような町だった。
バラモン教のヨーガが仏教の瞑想(めいそう)になって釈迦(しゃか)に悟りを開かせ、中国を経て来日し、生活禅となった。生きること、日々の振る舞いそのものが禅だと。『臨済録』には、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」という文がある。殺人のすすめではなく、過去の教えにとらわれず、自分の真実を発見せよという意味。そうでないと私の宗教とならないからだ。
13日の書は「草」で、女子たちと土筆(つくし)を摘んだ話が書かれていた。今どきのあぜは、摘む人もなく土筆が茂っている。これが文化の進歩かと、考えさせられた。薮(やぶ)に入ったが、寒さのせいかタケノコの出は悪かった。そんな自然と柔軟に付き合うのが人生なのだろう。
多田則明
誠文堂新光社 定価1980円