トップ文化書評『恋する仏教』 石井公成著 東アジアの恋愛文学を育てた【書評】

『恋する仏教』 石井公成著 東アジアの恋愛文学を育てた【書評】

『恋する仏教』 石井公成著  集英社新書 定価1100円

仏教とキリスト教の善悪観の最大の違いは「苦」と「罪」にある。苦は人間の努力によって何とかなるが、罪は神が遣わしたメシアに頼るしかない。その違いが、愛に対する自由度を大きく変えた。

ヒンドゥー教やチベット密教の像には露骨な性表現に驚かされることがあるが、それは性と原罪を結び付けたキリスト教の影響を受けているからで、真言密教で『理趣経』が重視されるように、そもそも仏教には性=悪という思想はない。

ちなみに、ニーチェは発狂前最後の著作『反キリスト者』で、原罪論はパウロの創作だと喝破し、聖書よりも「マヌ法典」の方が優れているとした。

日本の仏教受容は古代国家の黎明(れいめい)期だったので、建築や美術、音楽、芸能、医学など文化総体として流入した。正岡子規が仏教以前の日本人の感性が表現されているとした万葉集も同様なことは、江戸時代の学僧・契沖(けいちゅう)が既に指摘している。

例えば、柿本人麻呂の「水の上に数書くごとき我が命妹(いも)に逢はむとうけひつるかも」の前段は『涅槃(ねはん)経』にある言葉で、後段の「逢ふ」は夜を共にすること、「うけひ」は誓うこと。はかない命だが、あなたと契りたいと大胆に語り掛けている。

韓国で有名なのは、中国に留学し華厳(けごん)宗の開祖となった義湘(ぎしょう)と中国人娘との恋。誘惑にもなびかない義湘に心服した娘は、船で帰国する彼を龍になって守り、霊山に寺を建てるのに反対する僧を、虚空に浮かぶ巨大な岩になって蹴散らしたという。港にいた娘は遊女なのだろう。

『源氏物語』の基本は、男は「心から」行動し、女は「宿世(すくせ)」に流されてその結果に苦しみ、男女関係では「心の鬼」に苦しめられる構図になっている。

そして、こうなったのは罪のせいではなく、すべて自分のせいだとする。悪を自分で引き受ける仏教が、東アジアの恋愛文学を育てたのである。

多田則明

集英社新書 定価1100円

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