晩年は元号の研究に没頭

森鷗外が陸軍省医務局長(軍医総監・中将相当官)を辞職したのは大正5年、54歳の時だった。その翌年の暮れ、宮内省帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)に就任した。
それ以後 鷗外は史伝『北条霞亭(かてい)』以外は、文学とは無関係の仕事に向かった。『帝諡(ていし)考』(完結)は歴代天皇の贈り名の研究、『元号考』(鷗外の死によって未完)は元号・年号の研究だが、国文学者らは、鷗外の最晩年の仕事について関心を示すことはなかった。
この新書は、誰も言及しない時期の森鷗外について記述したものだ。宮内公文書館の資料が使われている。
帝室博物館総長は、宮内大臣、次官に次ぐ局長クラス。軍と宮内省の違いはあれ、官界に変わりはない。宮内省時代の鷗外の勤務状況は即断即決だったと言われる。
陸軍省辞職後間もない時期に官界に向かったのは、山県有朋(やまがたありとも)の存在が大きい。
山県が長州藩出身なのに対して、鷗外は津和野藩出身。長州には近いが小藩だ。2度目の役人務めにとって、山県との関係は重要だ。
当時山県は長州閥の第1位。彼の個性は慎重、神経質、寡黙、謹厳と言われる。相手に利用されるのを恐れる反面、逆に相手の利用価値を見極めようとする。明朗な人物とは言えない。
大正8年、宮中某重大事件が発生。山県の余計な干渉が強い反発を招いて、彼の政治力は大きく損なわれた。
結果的に、スキャンダルとは無関係の鷗外の力も低下した。『元号考』執筆中の大正11年7月9日、鷗外は亡くなった。60歳。その前日、摂政宮(のちの昭和天皇)から、従二位の位階が鷗外に贈られた。従二位は征夷大将軍に相当する。
晩年の鷗外は医学者らしく、「万世一系」はフィクションと認めた上で、「万世一系であるかのように」考えればいい、とした。「かのように」(明治45年)という短編もある。
文芸評論家・菊田 均
角川新書 定価1210円