日本の文明化とイメージ

本書のテーマとなる期間は、幕末の1854年のペリーの砲艦外交による「開国」と日米和親条約の締結、開港時の不平等条約の抜本的な解消、さらに1904年の予期せぬ黄禍論に至るまでの期間である。
列強との親和条約で余儀なく開港した「条約港」では、誰が言ったか不詳だが、日本の後進性を象徴した「花に香り、鳥に歌、男に道義心、女に貞節のない国である」という俗言が横行した。
これで公認されている公娼制度、愛人を扶養する畜妾(ちくしょう)制度のある淫(みだ)らな国という評判が定着してしまった。非文明国の日本が不平等条約の解消など、時期尚早なりと拒絶されたのだ。
実際に、確たる目的もなくただ好奇心から来日した旅行者の放埓(ほうらつ)な行動を抑制する手段の有効性を図って「出島化」で対応せざるを得なかった。これが、条約港の女性を求めて、なんと「世界漫遊家」と称する輩(やから)が蝟集(いしゅう)してきたのだった。
その上、西欧諸国の領事館の高官たちも、小間使いや家事手伝いの名目で、日本娘を抱え込んでいた。こんな外交官が、日本を非文明的な陋習(ろうしゅう)の国として非難していた。これこそダブル・スタンダードであろう。
この期間のアジアに対する西欧列強の帝国主義的侵略は凄(すさ)まじかった。それには人種差別も通底していた。例えば日英同盟(1902年)も、イギリス側の新聞紙上の図は「ブリタニアと高下駄をはいていた武者姿の日本女性」であり、日本側の図は「ブリタニアとやまとひめ」であるが、イギリスでは「やまとひめ」が次第に等閑(なおざり)に付され、「ゲイシャ」が占めてきた。
さらに日露戦争(1904年)で勝利すると、新興国ドイツ帝国から「黄禍論」が飛び出してきた。日本の近代化が成果を挙げ、経済的にも軍事的にも進展し、西欧列強と比肩するくらいになるにつれ、黄禍論を主軸に日本に対する警戒を募らせることになった。日本にとって艱難(かんなん)辛苦の時期であった。
法政大学名誉教授・川成 洋
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