日本を真珠湾攻撃に導いた男

1898年、米西戦争に完勝した米国は、スペインからグアム島を獲得し、フィリピンを3千万㌦で購入し、スペインが「内海」と豪語していた太平洋の覇権を屹立(きつりつ)させようともくろんでいた。 それが日米対決へと展開することになる。こうした米国の極東戦略を探るために、海軍軍令部第三部第五課は、日米開戦まで平時の編成10人定員であり、さらに18人の海軍士官を諜報(ちょうほう)員として米国西海岸に潜伏させた。 だが彼らは悉(ことごと)く素人諜報員であり、逮捕されたり、帰国したりといった茶番の連続だった。1940年早々、ルーズベルト大統領が太平洋艦隊の母港を真珠湾に移したために、攻撃目標が決まった。
41年12月8日(日本時間)の日本海軍機動艦隊によるハワイ真珠湾攻撃。72年にFBIの秘密ファイルが解除され、「エージェント・シンカワ」という日本側の諜報員が真珠湾攻撃に関与していたことが判明した。彼はフレデリック・ラトランドという英国人であった。
1886年生まれの彼は、14歳で少年兵として海軍に入隊する。1916年、第1次大戦のユトランド沖海戦で独海軍艦隊の位置の特定、荒波に落下した重傷兵の人命救助などで、「ユトランドのラトランド」「戦争英雄」といった名誉ある呼称を頂戴し、都合3個の勲章を授かり、大尉に昇進。18年に創設された英国空軍に少佐として転属。
彼の軍功が全く無視されたために除隊を決意する。22年、彼の海軍の技術士官としての将来性に注目したのが、ロンドンの日本海軍駐在事務所であった。三菱の航空機の技術助言者として来日したが、第1次大戦に開発された海軍の航空母艦の極秘指導に当たる。
その後、ロサンゼルスに移り、日本海軍の諜報員としての活動はいかなるものだったか。結論から言えば、日本海軍当局の人物評価の誤認だった、と言いたい。(辻元よしふみ訳)
評論家 阿久根利具
河出書房新社 定価2970円