
書名のゆふすげはユリに似た黄色い花で、別名きすげ。旅に出た皇太子を御所で待っている時に詠まれた「三日(みか)の旅終へて還らす君を待つ庭の夕すげ傾(かし)ぐを見つつ」(昭和49年)などの歌に出てくる。歌人の永田和宏氏は解説で、「茎はまっすぐでも、花は少し傾いだように咲く…。このような一点の些細な発見が、歌をすっくと立ちあがらせてくれる」とし、今の日本を代表する歌人と評価している。
みずみずしい感性を感じる相聞歌は「まなこ閉じひたすら楽したのし君のリンゴ食(は)みいます音を聞きつつ」(昭和51年)。「暁(あかつき)の色をもちたるハゼの名を和名アケボノと君なづけましき」(昭和59年)からは、皇太子を誇らしく思う心が伝わる。若々しいのは「寒の朝打ち初めと君の打ち給ふ白球はさやに光りて飛べり」(昭和50年)。
母のように陛下を慈しむ歌は、前立腺がんの手術のため入院された東大病院から一時帰られた時の「幾度も御手(おんて)に触るれば頷きてこの夜は御所に御寝(ぎょしん)し給ふ」(平成15年)。何度も手をさすられる様子が目に浮かび、一人の女性として、夫を案じる思いに共感する。
今年で30年になる阪神・淡路大震災の被災地には何度も足を運ばれた。「被災地に手向くと摘みしかの日より水仙の香は悲しみを呼ぶ」(平成9年)は、皇居で摘まれた水仙を、瓦礫(がれき)の上に手向けたのを思い出されて。
「帰り得ぬ故郷(ふるさと)を持つ人らありて何もて復興と云ふやを知らず」(平成26年)は、東日本大震災の被災者を思う歌。復興への道は想像以上に厳しい。硫黄島への慰霊の旅では「戦場にいとし子捧げし ははそはの母の心をいかに思はむ」と、同じ母として詠(うた)われた。「軍事用語日増しに耳になじみ来るこの日常をいかに生くべき」(平成15年)は今の時を詠われたかのようにも感じる。民のことを思い続け昨年、卒寿を迎えられた。
多田則明