
本書は、前書と同様、行間から明るい声がこぼれてくるような本である。本書の方が幾分張りのある声になっている。
本書ではっと思ったのは、指揮者ならではの体験、換言すれば、われわれ一般の聴衆には到底知る由もないコンサートにおける指揮者と演奏者の関係を垣間見せてくれたことであろうか。
イギリスでのデビュー3年後の1996年、世界的なモーツァルトのピアニスト、イングリット・へブラーとの体験。ある田舎の町のコンサートだった。
そこのグランドピアノはすごく小さくて傷だらけ……。これにはオーケストラ団員全員が、へブラーは怒って帰るのではと危惧した。リハーサル開始時間にやってきたヘブラーは、果たせるかな、ピアノを見て両手を上げてちょっとびっくり苦笑い、こう言ったのだった。
「サチオ、これはピアノではないわ。今日はリハーサルはなしにして、私と彼(ピアノをそう呼んでいた)と二人だけにしてくれる?」。皆は楽屋に戻り、ヘブラーは演奏開始ぎりぎりまでそのピアノを弾き続けていた。そしていよいよ本番。
モーツァルトの協奏曲の前奏が終わり、ヘブラーがソロを弾き始めた途端、驚いた団員全員がたちまち喜びの笑顔を見せながら、可能な限り美しい音でヘブラーに応えようと集中したのだ。協奏曲が終わると、聴衆が大歓声を上げた。著者は、彼女にあらゆる言葉で感激を伝えると、「オフコース、アイ・アム・プロフェッショナル!」と一言。実に感動的なシーンであった。
もう一つ。『田園』の演奏中に、第2楽章で気持ちよさそうなイビキが、第3楽章では「ジョン! ジョン!」という囁(ささや)き声が聞こえてくる。第4楽章の「嵐」までティンパニ奏者が寝てしまい、前列の奏者が必死になって彼を起こそうとしていた。ジョンは「嵐」の直前に、はっと目を覚まし事なきを得たのだった。
これで、著者が望むようにクラシックの裾野が広まります。
法政大学名誉教授・川成 洋
敬文舎 定価1650円