
ニューヨーク在住の哲学者である著者が50年近く前、20代前半に見た五夜連続の夢をつづっている。学んでいる哲学者たちに会い、話をしたのだから、至福の時間だっただろう。
古代ギリシャのソクラテスに言われたのは、弟子のプラトンは神々の代わりにイデアの世界を作り、それがキリスト教の神話作りに使われたが、自分は知の体系を作ったのではなく、人々を思い込みから解放しただけで、それが哲学だということ。さらに、人間こそが真理が現れる場で、対話を通して自分の中にある真理に目覚めさせた、と。
それは時代を飛び、ニーチェにつながる。ニーチェは著者に「イエスの十字架を信じることが救済だという教えは、イエスの死後、パウロによって捏造された架空の理論で、地上に幸福の世界を築くというイエスの理想は十字架でだめになった」と語った。彼が「神は死んだ」と言ったのは、神は生きていないと意味がないからだ。
ちなみにパウロの十字架による救いを神学にしたアウグスチヌスは「自分を深く、正直に分析すると、悪をなすとき、それが悪と知りながらなしていることを発見した」と告白している。放蕩(ほうとう)から来る罪悪感が、パウロの教えに共感させたのだろう。
現象学を提唱したフッサールは、近代哲学の祖デカルトが人間を独立する自我としたことに疑問を呈する。一人だけで存在する私の人生などなく、無数の人と自然、環境が交差しているのが私の内実である、と。
孔子や老子を経てたどり着いた道元は「万法に証せられるを悟りという」と語った。言葉の限界から思惟(しい)の限界を探ったウィトゲンシュタインや存在の意味を模索したハイデガーを思い出しながら著者が考えたのは、世界そのものが真理の働きで、その働きが私に真理を理解させていること。まさに「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の世界である。
多田則明
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