
神学者にしてトランプ大統領圧勝の背景も的確に論じる幅広い教養人の読書遍歴。学生時代にガールフレンドに誘われて教会に行ったことで信仰を持つようになったという、俗から聖への魂の遍歴も語られている。
人が何らかの信仰を持つようになるのは、本人の自由意思による選択というより、「向こうからやって来た」と言うしかないのが本当ではないか。「向こう」とは、現世と隔絶した神のことだが、神は多くの場合、人を介して働く。著者の場合それは前掲の女性ではなく、4歳で死別した母親である。
50歳になった著者は、親戚から、母が亡くなる前に教会に通っていたという話を聞き、当時住んでいた川崎の教会を探り当て、問い合わせたところ、戦後、設立されたその教会の召天記念礼拝で一番初めに読まれる名前の女性であることが分かり、母の信仰告白が送られてきた。そこには「この子の魂の教育を、主なる神に委ねたので、…今自分は安心して死を迎えることができる」とあった。
昔の写真を取り出すと、幼い自分が母と就寝前の祈りをする姿が写っているのに気付いた。著者は「自分に残された短い時間で、何とかして子どもに信仰を伝えたかったのだと思う。その祈りが、何十年という年月を経て、いつの間にか自分の身に実現している。そのことに気がついて、思わず身を震わせた」と言う。
信仰は常に個的で実存的で、万人が認める神など存在しないと語り、「救済とは、人が自分の一生を一つの物語として首尾よく解釈できるようになることである」とする著者の救済観に共感する。そのプロセスこそが救いであり、その営みは最期まで続く。仏性がある(救われている)から修行できるという道元の悟りにも通じ、宗教は本来、普遍的で自由度の高いものなのだと思う。
多田則明
岩波書店 定価3190円