
1月2日、奈良の春日大社で、朝夕の神前への供えが奉仕できるよう祈願する「日供始式(にっくはじめしき)」が行われ、中門下で興福寺の貫首らが唯識論を奉唱し、春日大社の摂社・若宮神社で般若心経を読経した。神仏習合の典型的なこの「社参式」を一つの手掛かりに、著者は藤原氏の氏神である春日大社と氏寺である興福寺、さらには同社の祭神の源流とされる鹿島神宮の謎に迫る。
茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮は、社伝では神武天皇の即位の年に創建された最古の神社とされるが、神社が社殿を持つのは仏教伝来後なので著者は疑う。『常陸国風土記』には、天智天皇の時代に神の宮が造営されたとあり、著者は当時の政治情勢から、これは社殿ではなく都市、それも蝦夷(えみし)に向けての軍事基地だと推理する。同時期、内海の対岸にあった今の千葉県香取市にある香取神宮の地にも基地が造られた。
祭神など春日大社の由来が定まるのは、経典を有する仏教が受容され、神道と習合してからで、同社一宮に祀(まつ)られている鹿島神宮の祭神タケミカヅチは、興福寺中金堂の本尊である釈迦如来(しゃかにょらい)だとする。つまり、天孫降臨、神武東征に歴史を発し、平城京を守護する社寺としての物語が作られたのであろう。タケミカヅチはアマテラスの命で出雲に降り、大国主に国譲りを迫った神である。
春日神社の信仰の始まりは御蓋山(みかさやま)の磐座(いわくら)で、それを守っていた春日氏の榎本神社(えのもとじんじゃ)は、同社摂社として南門近くに鎮座し、藤原氏が春日氏を支配した歴史を記している。
伊勢神宮の信仰の始まりも神宮司庁の東にある内宮磐座で、近くの金剛證寺(こんごうしょうじ)は江戸時代まで伊勢参りに欠かせない寺とされていた。それらから著者は、神宮内宮は内宮磐座の遥拝(ようはい)所だったのではないかと推測。それが現在、なぜか無視されているのも大きな謎だという。
多田則明