
学生時代、犬養孝先生に習った万葉歌を歌いながら、山の辺の道を歩いたことがある。好きだったのは、「采女の袖吹き返す明日香風 都を遠みいたづらに吹く」。都が明日香から藤原に移った寂しさを詠んだ志貴皇子(しきのみこ)の歌で、当時と同じ風に今も吹かれていると感じ嬉(うれ)しかった。
著者は「古典を学ぶということは、古に思いを馳せること…。遠い昔のことが、まるで今、自分の目の前で起こっているように感じられた瞬間、私たちは古典をほんとうに読んだことになる…」と言う。
その一助になるのがオノマトペ(擬音語・擬態語)で、例えば、「春雨のしくしく降るに高円(たかまど)の 山の桜はいかにあるらむ」。河辺朝臣東人(かわへのあそみあずまひと)の歌で、副詞の「しくしく」は、重なるという意味の動詞「しく」を重ねて、しきりに、絶え間なくという意味にしたもの。今なら「しとしと」だろう。「春日野に朝居の雲のしくしくに 我(あ)は恋増さる月に日に異(け)に」は、朝の雲が次々に湧くように、しきりに恋心が募りますという意味。
著者は大学2年の時、国生み神話でイザナギ・イザナミの夫婦神が、天の浮橋の上から天の沼矛(ぬぼこ)を下げ、シオ(海水)をかき混ぜると「コヲロコヲロと」鳴り、矛を引き上げると、先から落ちた塩水が塩になって重なり、「オノゴロ島」になったという話に驚いたという。今であれば、水が鳴る音は「ゴロゴロ」だろうと思い出しているが、それが万葉時代に引かれた瞬間かもしれない。
山上憶良(やまのうえのおくら)の「貧窮問答歌」にある「しはぶかひ鼻びしびしに」(咳(せき)をして鼻がズルズル)は、花粉症の鼻水は「ビシビシ」でもいいと思う。「奥山の真木の板戸をとどとして 我が開かむに入り来て寝さね」は、恋人を待っている女が、戸を「とど」とたたいてください、開けますからと誘う歌。今の「トン」より強い思いが感じられる。
「日本は歌の国。歌を学ぶことは日本を学ぶこと、…それが幸福につながる」と著者は言う。
多田則明
KADOKAWA 定価1595円