
旧陸軍中将遠藤三郎(1893~1984年)のように、戦後非武装日本の誕生に満足し、「無軍備」「非戦平和」を主張し続けた将軍は珍しい。彼は11歳から91歳まで毎日、日記を書き続けていた。本書は、彼が在仏大使館付陸軍武官として在任中(1926年9月~29年2月)のことが主に書かれた日誌である。
彼は仙台幼年学校で仏語を学び、初めての渡仏体験である。事前にフランス語を独習する。パリに到着し(10月26日)、さまざま用事を済ましてパリから最初の滞在地ルーアンに向かう(11月7日)。パリ近郊の日本人のいない町を選んだ。語学を学ぶ者の在外滞在の鉄則である。
ルーアンは314年以来の司教座教会の町で、英仏百年戦争中、英国軍に占領され、ジャンヌ・ダルクが火刑された町である。ルーアンの秋、草原に牛と馬、さながらミレーの風景を堪能する。下宿を決めると、早速フランス語会話の先生募集の新聞広告を出して決める。パリに戻り4月21日から、室少将以下5名の将校たちと、最大の激戦地ヴェルダンを視察する。
「戦後十年なるに弾痕歴然として其の跡を止め草木悉く枯死せるものか春来りて漸く芽を生せるものを見るに過きず当時の惨状を回顧するに余りあり」(27年4月21日)。翌日、Chinin des danusの高地の戦場を見て「ベルタン(ママ)の夫れに比すれば激戦の度劣れりと雖も小村落跡もなく破壊せられある」などと記している。
ジュネーブで日・英・米の海軍軍縮会議が開かれ(6月20日~8月4日)、陸軍首席随員として参加するが、海軍司令官たちの軍縮はまとまらず、不成功に終わる。28年6月6日、仏軍が全滅したロッシニョル古戦場を訪れ、「今尚感新にして断腸の思ある故なきにあらす同情の念禁し能はざりき」と記している。
29年2月26日、米国大陸経由で日本内地に帰国内示を受ける。こうして近代兵器が多大な人的被害を惹起(じゃっき)することを実感したのだった。
評論家・阿久根利具
アジア・ユーラシア総合研究所 定価2750円