
武士を束ねていた室町幕府は崩壊し、京都の朝廷もただ右往左往するだけで、中央政権の求心力は急降下した。古代から宗教的権威であった大寺院も焼き打ちされ、こうした恒常的な戦時体制を背景に台頭した戦国大名が抗争を繰り返していた。この時代に日本全国に2万5000とも3万ともいわれる城が築かれていたという。
本書は、城郭研究、考古学、文献史学の三つの視点から、城と合戦の相互関係性を詳(つまび)らかにしている。戦国時代から近世初期、天下一統の趨勢(すうせい)の真っただ中にいた、最大の天下人である家康に焦点を当て、12のテーマの概要、二人の著者対談など、優れてユニークな内容である。
慶長期の家康江戸城をどのようにして築城したのか。それは長い間の謎であった。しかし、2017年に島根県松江市の松江歴史館が発表した「江戸始図(えどはじめず)」は、前代未聞の重要な軍学系絵図であり、御殿などの描写を意図的に省き、しかも、城の主要部分は黒線、緑色、水色、黄色で色分けされている。
また、家康江戸城は、大天守と小天守を多聞櫓(たもんやぐら)によって結んだ連立式天守を備え、現存する姫路城や伊予松山城も連立式天守であるが、家康江戸城の連立式天守は圧倒的に大きい。
家康の天守は白漆喰(しろしっくい)総塗籠(そうぬりごめ)の外観であり、富士山のように遠方からはっきり見ることができ、当時最も火災に強い外壁の仕様だった。実用性と審美性の両方を生かした家康ならではの感性であった。
家康の城下町の整備は、実に刮目(かつもく)に値する。頻繁に氾濫する利根川の付け替え、町への飲料水確保のため、大規模な水道工事を断行した。城から、「の」の字のように螺旋(らせん)型の堀を巡らせ、江戸湾につながっている。家康は将軍宣下(せんげ)を受けて即刻、城の築城から城下町の整備まで、大名たちに天下普請(てんかふしん)を開始させた。もちろん大名の重い自己負担であった。これこそ、徳川長期政権維持の秘策だったのであろう。
法政大学名誉教授・川成 洋
朝日新書 定価1400円