高度に発達したホモ・サピエンスの脳は、人が死んだという不可逆的な生理的事実は認知できるが、別の(指向的構えを持つ)認知プログラムのため、頭のどこかで故人を生きているかのように扱っているという。だから、仲間が集まった葬儀の席で、「これであいつも喜んでいるさ」と口にしたりする。その脳が、来世や地獄・極楽、輪廻(りんね)転生などの観念を生み、宗教を誕生させた。本書は、世界の主な宗教ごとにその様相を簡潔に解説している。

日本人の死生観は、縄文時代からのアニミズム的な思想に中国経由の仏教が融合したもので、一神教のように一元的ではなく、むしろ科学的な知見にも対応できる融通性がある。例えば、死は大自然に帰ることというのは、アニミズム的で禅宗にも通じ、科学的にも矛盾しない。
宗教史的に多いのは、世俗倫理を反映させた死生観で、悪行をすると死後、地獄に落ちるなどがその典型。インドでは見られないその思想は、中国の儒教の影響だという。先祖祭祀(さいし)もそこから発達した。日本で浄土教が広まったのは、それだけ現世の暮らしが厳しかったからで、死は常に人々の身近にあった。死が遠のいたのは最近のことで、それでも自然災害などがあると、かつての文化がよみがえる。
東日本大震災の被災地では、死者の霊に出会った話がよく語られ、それが人々の心の癒やしにさえなっていた。忘れることが、死者を二度目の死に追いやるようで、耐えられないのであろう。それは、寄り添いを旨とする近年のグリーフケアにも通じる。来世は科学的には否定されても文化的には実在し、人々はその中に生きているからである。
諸宗教の死生観を参考にしながら、要は自分なりの死生観を持つことだろう。メメント・モリ(死を想え)で、ヴィクトール・フランクル風に言えば、「人生が私に生きる意味を問い掛けていて、私はそれに答える義務がある」ということである。
多田則明
中公新書 定価1100円