
西郷と言えば隆盛が有名だ。西郷従道は隆盛ほど知られていない。
16歳年少の弟は、時に地味な役割を引き受けざるを得ない。従道は「つぐみち」と呼ばれるが、本人は「じゅうどう」と名乗った。
薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の茶坊主出身だったため、「茶坊主上がり」と呼ばれた。従道を茶坊主に推薦したのは有村俊斎(海江田信義)。彼も茶坊主だった。
従道の転機となったのは西南戦争(明治10年)。34歳の従道は陸軍次官のような地位にあった。
兄隆盛は反乱軍の首謀者だったが、従道は隆盛と行動を共にすることはなかった。そのことは隆盛も了承済みだ。フランスでの軍事視察の経験からすれば、内戦はすべきでないと思えたのだろう。
従道は西南戦争について、「兄は別府晋介・辺見十郎太らにだまされた」と語っている。著者は「そう語ることで、気持ちを落ち着かせたのだろう」と言う。木戸孝允(たかよし)・大久保利通・伊藤博文・山県有朋(ありとも)には兄弟がいなかった、との指摘は面白い。
西南戦争2カ月後の段階で「西郷は終わった」と従道は語っている。
以後従道は、陸軍大臣・海軍大臣・内務大臣を歴任。明治の元勲級の最高指導者へと進む。が、従道は首相になることはなかった。
西南戦争以後、兄隆盛は従道にとって重荷となった。晩年近く、上野公園で行われた隆盛像除幕式には参列しなかった。
兄隆盛は歴史を切り開いた。従道はその歴史を踏み固めたが、国のトップになるつもりは全くなかった。「トップになるつもりのない実力者」は強い。そういう存在として周囲から評価されていた。
「あとがき」で著者は、「元勲でありながら、従道は研究対象となってこなかった」と指摘している。従道は明治35年、59歳で亡くなった。
文芸評論家・菊田 均
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