
「推し」「推し活」という言葉をよく耳にするようになった。
「現代社会において『推し活』という言葉は、かつてのように限られたコミュニティーの専門用語ではありません。それは私たちの日常生活に深く根を下ろし、世代や価値観を超えて共有される文化的なムーブメントとなっています」と、愛知淑徳(しゅくとく)大学の久保南海子(なみこ)教授がNHKの「視点・論点 中高年の〝推し活〟幸福とリスクの表裏」の冒頭で述べている。
今や「推し活」人口は、推計2000万人に及び、アニメやアイドルのコンテンツ、グッズ収集、ライブイベント参加など「推し活」市場は推計4.1兆円に上るという。
その規模は清涼飲料水市場にも匹敵する。
ここで取り上げる今話題の新刊、三宅香帆著『推したちとどう生きるか』(新潮新書)は、日本ではなぜ「推し活」が盛んになっているのか、その社会的・文化的な背景を歴史的に辿(たど)り、今後どのように推しを続けていったらいいのかを考察している。
著者は「昔から日本では、大人が推し活的な趣味を楽しむ文化があった」と言い、明治以降に出現した「新中間層」がその担い手であったという。そして彼らの「子どもをメディアとして西洋文化を楽しむという習慣は、戦後もテレビを通してアイドルという形でお茶の間に広がりました」という分析は興味深い。
このアイドル文化からオタク文化、そして推し文化へと変遷していく過程を、経済、社会、そして文化人類学的な考察を交えながら追っている。その中で評者が最も重要と思ったのは、「推し活」の疑似宗教的な側面である。
「聖化する推し活」の項で著者は、「聖地巡礼」はもとより、推しのグッズを並べる場所を「祭壇」、推しの誕生日を「生誕祭」と呼ぶなど、「推しを推すことに決めた瞬間、私たちは、推しにまつわるものを聖なるものだと感じるようになる」と指摘する。
さらに、なぜ日本人は推しに聖なるものを求めるのかという点を、ポストフォーディズム(大量生産・大量消費を前提とした経済体制)という経済社会の変化から考察している。
戦後日本の経済社会の変化に関する考察は興味深いが、評者はより根本的には、何事も善きにつけ悪(あ)しきにつけ、疑似宗教化しやすい日本の宗教・文化風土に起因するのではないかと考える。当然、戦後のある時期からそれが強まったことの解明も必要だろう。
著者は「推し」が、アイドル文化やオタク文化とは異なる点について考察している。
「第三章 『母』化する現代日本の推し活」において、「推し活」が自分の憧れや趣味、嗜好(しこう)を満たすだけでなく、推しを子供のように育て見守る母親のような心理が働いていることも指摘している。それは無償の愛にも近いものであり、他者のために何かしてあげたい、それを生きがいにしたいという人間の性質が形を変えた表れとも言える。ここにも「推し活」の疑似宗教性が現れていると言えまいか。
必ずしも著者の独自見解ではないものも含め、面白い指摘が幾つもあった。日本では子供を神聖視する文化的・宗教的な土壌があることや、「推し」の最も〝古典的〟な例と言える宝塚の文化における、創設者・小林一三の「家族」を重視した思想と経営戦略についての考察なども大変興味深かった。
藤橋 進







