国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された「飛鳥・藤原の宮都(きゅうと)」のある奈良県明日香村は、奈良盆地の最南部に当たる。この地域を開拓したのは東漢(やまとのあや)(倭漢)氏など大陸や朝鮮半島からの渡来氏族だった。

東漢氏(やまとのあやうじ)は秦氏(はたうじ)と並ぶ古代の有力渡来氏族で、『日本書紀』には、応神天皇二十年に「倭漢直の祖である阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類(ともがら)十七県(あがた)を率いて来帰」したとある。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、阿知使主は応神天皇の勅によって、大和国高市郡檜隈(たけちぐんひのくま)村に居地を与えられたと記されている。
明日香村には東漢氏の氏寺であった檜隈寺跡がある。のどかな田園地帯の中にあり、近くには「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産、キトラ古墳や高松塚古墳もある。境内があったとみられる所には、阿知使主を祀(まつ)る於美阿志(おみあし)神社が鎮座する。
創建は7世紀後半とみられ、今は平安時代に建てられた十三重石塔が残るのみだが、発掘によって朝鮮半島の寺院で用いられている瓦積基壇(かわらつみきだん)や百済(くだら)様式を含む古い軒丸瓦、小金銅仏片などが出土している。近くの遺跡からは大陸風のL字形かまどやオンドルを備えた住居跡も発掘されている。
それにしても、そもそもなぜ明日香のようないわば辺境の地に宮都が置かれ、政治の中心となったのか。周囲を山に囲まれていることが防衛に適していたなどの指摘もあるが、先進的な文化を持った渡来人の拠点であったことが大きな理由とみられる。
その中でも東漢氏は、土木技術や織物技術を持っており、軍事的にも秀でていた。飛鳥時代に入ると、強大な勢力を誇り政治の実権を握った蘇我氏と結び付いて台頭する。東漢駒(やまとのあやのこま)が蘇我馬子による崇峻(すしゅん)天皇暗殺(596年)の実行犯となり、後に馬子に殺害され、東漢氏の宗家は没落する。しかし、そこから坂上(さかのうえ)氏、書(ふみ)(文)氏などが分かれ、坂上氏からは平安時代に征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂などが出ている。
東漢氏の出自については、坂上氏の系図に「後漢の霊帝の子、延王から出た」とある。しかしこれは、秦氏が秦の始皇帝の子孫を名乗ったのと同じように権威付けのために語ったものとの見方をする研究者は少なくない。京都大学教授を務めた上田正昭は、名著『帰化人』で、アヤ(漢)は朝鮮半島南部の伽耶の代表的な国であった安羅(あら)に由来するとの見方を示している。
檜隈寺跡は、明日香の歴史を知るためには欠かせない場所といえる。
(藤橋 進)







