私は学生時代、奈良県天理市のJR天理駅から大神(おおみわ)神社までの、日本最古の道の一つとされる「山の辺の道」を何度か歩いた。道端には幾つもの万葉歌碑があり、犬養孝大阪大学名誉教授に教わったメロディーで仲間と歌ったのが懐かしい。
(文・多田則明)

その道のほぼ中間点に地獄絵で有名な高野山真言宗長岳寺(ちょうがくじ)がある。開基は空海で本尊は阿弥陀如来。カキツバタをはじめ桜、平戸ツツジ、アジサイ、酔芙蓉(すいふよう)、紅葉やヤブツバキなどが四季を彩る花の寺でも知られている。
秋のお勧めは、境内の紅葉が見事な10月23日から11月30日までの期間で、安土桃山時代に狩野山楽が描いた9幅構成の地獄図「紙本著色六道絵(しほんちゃくしょくろくどうえ)(極楽地獄図)」を掛け、北川慈照(じしょう)住職が絵解きをしながら物語る、現代風「閻魔(えんま)の嘆き」。精密な図柄とリアルな地獄の描写から、中世の人たちに広まった地獄観を想像することができる。
古代の日本にはなかった「地獄の思想」は飛鳥時代の6世紀半ば、仏教伝来とともに入ってきたが、それが庶民にまで広がったのは平安時代に天台僧の源信が『往生要集』を著し、中国から十王信仰が入ってきたことが大きい。
十王信仰とは、人は死後、中陰(ちゅういん)と呼ばれる状態となり、初七日から四十九日まで、10人の王から順次審判を受けるという、中国で道教や仏教の影響を受けて成立した信仰。その裁判官の中心が5人目の閻魔大王。日本で、十王信仰はさらに地蔵菩薩など三つの仏が加わり十三仏信仰へと発展する。室町時代以降、密教の影響を受け、七回忌や十三回忌、三十三回忌など、今に伝わる法要の形が定着していく。
9幅の軸で構成される長岳寺の地獄図は互いにつながり、全体で1枚の絵になる。図の上部に十王裁判図、図の中程から下部にかけて、冥界(めいかい)の入り口である墓地、罪問間樹(つみといかんき)、死天山、三途(さんず)の川、奪衣婆(だつえば)、賽(さい)の河原、八大地獄、餓鬼道(がきどう)、畜生道、修羅道などの情景が描かれている。最後の第9軸で様相が一変し、極楽から阿弥陀如来が聖衆を引き連れて人々を迎えにくる「聖衆来迎図」で締めくくられている。
もっとも人々の記憶に残るのは火で焼かれたり、串刺しにされたりする地獄の様子で、今のようにバーチャルリアリティーが発達していない時代、地獄絵が人々に強烈な印象を与えたことは想像に難くない。

もともと、寺での祭礼や法要の後に、この地獄図を使って、参詣人を対象に絵解きが行われていたとされる。地獄の恐ろしさ、因果応報を解くことで信心を促し、寺での先祖供養や中陰、逮夜(たいや)、年忌の法要を大切にするように説いたのだろう。今、私たちが見ても胸に刺さるものがあるのは、地獄絵はまさしく現世を反映しているからである。
人々に罪の自覚を呼び起こさせ、信仰に導くという布教の仕方はキリスト教も同じで、地獄の様相は洋の東西を問わず似ている。決定的に違うのは、地獄にも救いがあるか、やり直しは利くかだ。最後の審判の時、メシアの救いにあずからなかった者は地獄に落ちたまま、永遠に戻れないとするキリスト教に対して、仏教では地獄で亡者を救う地蔵菩薩がいる。しかも、裁きは1回ではなく段階的で、刑期は永遠ではなく、期間限定で恩赦もある。そんな緩さから、江戸時代には地獄がパロディー化され、「地獄めぐり」の落語まで演じられるようになった。さて、どちらが真実なのか?
私は小学生時代、「念仏ばあさん」の祖母に浄土真宗の寺に連れて行かれ、地獄絵のスライドを見せられたため、しばらく夜中に外のトイレに行くのが怖かった。今から思うと、悪への誘惑を断つ一つの力になったのは確かで、その上に、人生経験を積みながら自分なりの来世観を築いてきたように思う。







