初秋を迎えて草花のことを考えていると、思い出す風景がある。作家の故栗田勇さんと中国浙江(せっこう)省にある天台山を旅した。これは連載小説『比叡(ひえい)は萌(も)える』(小紙1987年1月5日~90年3月31日掲載)のための取材旅行で、連載が始まる前年の9月のことである。

天台山は最澄(さいちょう)が学んだゆかりの地だが、標高1300㍍の連山である。天台山は広い地域にまたがり、麓に天台県の小さな集落があり、郊外に隋唐(ずいとう)時代から名高い国清寺がある。山中の道を車で北にたどった先には茶畑、もっと先には三つの方広寺があり、頂上、華頂峰の下の華頂講寺がある。
車が尾根に至ると、畑が広がっていて、峠のような所で下車。歩いて小路をたどり、天台智顗(ちぎ)を祀(まつ)った宝塔に向かった。
畑や山々や谷の織り成す風景が現れて、日本の山村に来たような趣があった。
栗田さんは同小説で「日本の秋にこの中国の山地で、突然めぐり逢(あ)った」と書いている。
足元にナデシコやワレモコウが咲いていた。ハギやススキやエノコログサもあった。畑にはトウモロコシやイモ類、豆類。谷間には松林に囲まれた高明寺があり、下っていくと子供が2人、天秤棒(てんびんぼう)を担いで上がってくる。栗田さんがカメラを向けると怖いものに出会ったように顔を背け、擦れ違った。
山中で監視社会の一面を見せられたような気がした。
ところで中国の旅は4回に及んだ。連載開始前に2回、連載中に2回。コースと場所、季節はそれぞれ違ったが、みな2週間前後の旅で、連載中によくもこのような計画を立てたものだと驚かされた。

その理由は、小説は新聞に毎日掲載されるが、ストックがほとんどない状態で始まり、それが連載中ずっと続いたからだ。休載するわけにはいかない。
3度目の旅の時、出発の1週間前になってもストックがゼロ。前日に3回分、当日に10回分受け取ったことで、やっと留守中の原稿が書き上がったことになる。
といっても、最後の分は成田空港のカウンターで完成させたのだった。
この時、旅行準備は栗田さんのアシスタントがしていた。ところがアシスタントがスーツケースの鍵を忘れ、栗田さんは叱った。一言二言叱っては書き、また叱っては書き、という作業を繰り返した。
書くという作業は心が穏やかでなければできない行為だが、栗田さんは一瞬で怒りと心の平和のスイッチを入れ替えることができたらしい。
これを脇で見ていて、すごい人だ、とあっけにとられた。4度目の旅の時には、一晩で14回分を書き上げた。1回分は、400字詰め原稿用紙で3・5枚。合計49枚。驚くべき、信じ難い瞬発力だった。文章にはむらがなかった。
この小説の連載中、栗田さんに講演してもらったことがある。
「1行か2行書くためには、本を5、6冊読む。読んだことをそのまま詳しく書くことは簡単なのです。それをどんどん捨てていく。そして最後に残るものは何か」
その「何か」を書くのだ。捨てるのに時間がかかる。これがストックがゼロの背景なのだ。
では一晩で14回分はなぜ可能だったのか。おそらく1カ月以上前から準備をしていて、頭の中の原稿用紙に書いておき、それを一晩で原稿用紙に写したということだ。頭脳はコンピューターのごとし。その文章の美しさに脱帽した。
(増子耕一)







