
サッチャー評伝の2冊目として昨年10月に出版された池本大輔著『サッチャー 「鉄の女」の実像』(中公新書)を取り上げたい。
前回の冨田浩司著『マーガレット・サッチャー』(新潮選書)が主にサッチャーのリーダーシップに焦点を当てているのに対し、本書は経済政策や欧州統合問題への対応などをより細かく見ることに比重を置いている。
「まえがき」で著者は、サッチャーを今改めて取り上げる理由を二つ挙げる。
一つは欧州連合(EU)からの離脱(ブレクジット)後の混乱など英国で起きているさまざまな問題が、サッチャー政治に起因する面が少なくないこと、もう一つは英国でチャールズ・ムーア著の正式な伝記などが出版されており、それらの新知見によって日本における研究をアップデートさせることである。
「『鉄の女』の実像」と副題にあるように、本書には「信念の政治家」と呼ばれるサッチャーの従来のイメージの修正を意図した面がある。著者は、「信念の政治家」とは、「『方向転換(Uターン)』した前任者のヒースとは対照的な存在として印象付けるために、自ら作り出したイメージ」という。
実際には「改革が政治的に受け入れられるかどうか慎重に判断し、石橋をたたいて渡る政治家であった」という。また北アイルランド問題やエイズ対策では、自らの信念に反する政策の遂行も許したとも述べている。
しかし幾つかの例外はあり、自己演出することがあっても、やはり根底に強い信念がなければ、炭鉱労組との死闘など最後まで戦い抜くことはできなかっただろう。本書は実際の政策や政権運営を細かく見ることで、サッチャーの実務家としての側面を照らし出してはいるが、強い信念の政治家であるというサッチャー像を揺るがすまでには至っていない。
一方、本書で最も冷徹な分析をしていると思われるのは、冷戦終結に果たしたサッチャーの役割とその本音についてだ。
「自由の価値を強調するサッチャーにとって、共産主義体制の崩壊はイデオロギー的にはこの上なく望ましい出来事であった」と断りながら著者は次のように述べる。
「問題は、その地政学的なインパクトにあった。本音としては東西両陣営の平和的共存で十分であったサッチャーにとって、短期にヨーロッパの分断が克服され、東西ドイツが統一するに至ったことは、想定外の事態であった。サッチャーは引き起こすのに一役買った歴史の大きな波に、飲み込まれようとしていた」
サッチャーは最後まで東西ドイツの統一に反対した。大陸に突出した大国を出現させないという英国の伝統的戦略が基本にあると思われる。一方でサッチャーの出身地グランサムには砲弾製造工場があったため、大戦中ドイツ空軍の爆撃を受け、88人が亡くなった。「この経験がサッチャーを筋金入りのドイツ嫌いにした」という。
EU本部のあるブリュッセル(ベルギー)に権力が集中する危険を訴えた1988年のブリュージュ演説は、英国の反EU派の精神的な出発点になっている。サッチャリズムは今も生きているのだ。
藤橋 進







