
日本の皇位は初代神武天皇以来、例外なく男系で継承されてきた。しかし、皇統の危機はたびたび訪れ、そのたびに先人たちは苦心して乗り越えてきた。江戸時代、閑院宮家(かんいんのみやけ)から第118代後桃園(ごももぞの)天皇の養子となって即位したのが光格天皇である。その血筋は今上陛下にまで続いている。
本書がミネルヴァ日本評伝選の一冊として平成30年7月に出た際、帯の文句は「二百年前の譲位の背景とは…」というものだった。天皇陛下の退位が決定した際「1817年の光格天皇以来」と新聞で枕詞(まくらことば)のように書かれるようになったためである。
それから8年後、皇室典範が改正され、戦後廃止された旧宮家の男系男子が宮家の養子となる道が開かれた。皇室の男系の血筋を絶やさないために設けられた世襲親王家(せしゅうしんのうけ)(宮家)への関心が高まり、本書は、その観点からも改めて読み直される時を迎えた。
著者の藤田覚(さとる)氏は東京大学名誉教授で『幕末の天皇』『江戸時代の天皇』などの著書がある。本書は光格天皇の本格的評伝で、その業績や歴史的な位置を知る上で格好の書物だ。それまでほとんど注目されることのなかった光格天皇だが、読むにつれ歴史上、重要な役割を果たした天皇であることが実感される。
光格天皇は閑院宮典仁(すけひと)親王の第6皇子として生まれ、ゆくゆくは聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)を継ぐため出家することが期待されていた。ところが後桃園天皇が皇子を残さずに崩御し、男系の継承者がいなかったため、天皇の養子となって皇位を継承した。
閑院宮家は、宝永7(1710)年に創設された新宮家で、第113代東山(ひがしやま)天皇の第6皇子で光格天皇の祖父に当たる直仁(なおひと)親王が初代当主。当時、皇子の多くが出家して門跡寺院に入ることが常であり、皇位継承者がいなくなることを心配した新井白石が新宮家の創設を建言したのだ。
実子への皇位継承が続いていた当時、傍系の宮家から皇位につくのは異例だった。そのことを誰より自覚していたのが、天皇自身だった。著者は天皇の遺(のこ)した「宸筆宣命(しんぴつせんみょう)」の中の「不測の天運」によって皇位を継承するようになったという表現に注目し、天皇が傍流意識を強く持っていたとみる。
そして「傍流であるがゆえになおさら理念的な『あるべき天皇』像を追い求め、努力して天皇としての自己の権威の強化を図った、ということは考えられる。傍流意識がバネになることはあり得る」と指摘する。
本書の副題「自身を後にし天下万民を先とし」は、その「あるべき天皇」像を示した言葉。光格天皇が後桜町(ごさくらまち)上皇に送った書状の中で天皇としての心構えを表現したものだ。
光格天皇は傍流であるが故に、皇統への意識は強く、新嘗祭(にいなめさい)などの神事や朝儀の再興に力を尽くした。幕府との関係では、従来の慣行を見直して強い姿勢を取ろうとした。天明の大飢饉(ききん)の際は、困窮者の救済を幕府に要請した。
その積極姿勢は、父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府との緊張関係を生むが、それらが明治維新を準備したともいえる。血筋からも事績からも重要な位置に立つ天皇である。
藤橋 進






