
河内春人著『継体天皇』(中公新書)が、新書の売れ筋となっている。
副題は「六世紀に現れた世襲王権の『始祖王』」。最近の皇位継承問題への関心の高まりがその背景にありそうだ。
第26代継体天皇は、歴代天皇の中では、これまで一般的にそれほど知られる天皇ではなかった。日向(ひゅうが)から大和へ東征した初代神武天皇、民の竃(かまど)の逸話のある仁徳(にんとく)天皇、律令(りつりょう)国家を造った天智天皇や天武天皇、大仏を建立した聖武天皇などと比べても影が薄い。しかし、本書を読めば、継体天皇が、これらの天皇に勝るとも劣らない大きな存在、とりわけ世襲による皇位継承を確固たるものにする上で重要な天皇であることが理解できる。
第25代武烈天皇が実子を残さないで亡くなったため、王位継承者がいなくなってしまったことを憂いた大伴金村(おおとものかなむら)ら有力豪族が白羽の矢を当てたのが、応神天皇の5世の孫で、越前の三国にいた男大迹(をほど)(継体天皇)だった。男大迹は、彦主人王(ひこぬしのおおきみ)を父に、垂仁(すいにん)天皇の7世の孫、振媛(ふりひめ)を母に持ち、近江から越前にかけて勢力を伸ばすようになる。
応神天皇の5世の孫ということについては、天皇家と血の繋(つな)がりを疑い、王朝交代説を唱える学者もいる。また6世紀初頭に樟葉宮(くすはのみや)(現大阪府枚方市)で即位した後、筒城宮(つつきのみや)(現京都府京田辺市)、弟国宮(おとくにのみや)(現京都府長岡京市)を経てようやく20年後に大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)(現奈良県桜井市)に遷(うつ)ったことなどから、大和に敵対勢力がいたのではないかという説もあった。
しかし、結論から言うと、著者は王朝交代説は採らない。また大和入りが遅れたことについては、婚姻関係によるものとしている。何より樟葉(くずは)はかつて存在した巨椋池(おぐらいけ)の畔(ほとり)にあり、河川を通じた交通の要衝であったため、継体天皇の基盤となった北陸勢力はここを抑えていたのである。
継体天皇は北陸出身だが、大和王権との関係が疎遠であったわけではない。著者は曾祖父オホホド王が巨椋池の出入り口にある三島に太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳を造営したことを大和王権への影響という点で重視し、妹の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が允恭(いんぎょう)天皇の皇后になったという記紀の説話にも注目する。
中国の史書なども参照しながら、『古事記』『日本書紀』の記述を精緻(せいち)に検証し、さらに考古学的な知見などを基に総合的に史実を炙(あぶ)り出していく。とりわけ『日本書紀』の中にある潤色箇所を、一つ一つ検証していく手際は鮮やかだ。
継体天皇の事績には、「任那(みまな)四県割譲」問題など百済(くだら)への支援と五経博士の来日、筑紫の磐井の乱の平定、屯倉(みやけ)の創設などがあるが、本書で最も強調されるのが、世襲による大王位の継承である。
それまでの王位継承は、有力豪族の推戴を受けた複数の王族集団によって行われていた。それが継体天皇の後を継いだ安閑(あんかん)天皇以後、血統重視の世襲となる。その根拠として著者は、継体天皇の陵墓とされる今城塚(いましろづか)古墳で継承儀礼を模した埴輪(はにわ)が発見されていること、王統譜の作成が子の欽明(きんめい)天皇の頃に開始されていることなどを挙げている。
継体天皇の代からだけでもその血筋は1500年以上続いている。世界最古の王室であることは間違いないのだ。
藤橋 進






