トップ文化近衛文麿邸「荻外荘」を訪ねる 復元された昭和史の舞台「荻窪会談」の客間・自決の書斎

近衛文麿邸「荻外荘」を訪ねる 復元された昭和史の舞台「荻窪会談」の客間・自決の書斎

荻窪会談など重要会談が行われた客間=東京都杉並区
荻窪会談など重要会談が行われた客間=東京都杉並区

 昭和の激動期、3度にわたり首相を務めた近衛文麿(このえふみまろ)の東京・荻窪の別邸「荻外荘(てきがいそう)」を訪ねた。閑静な住宅街の中にあるこの別邸は、近衛を中心に何度も重要会議が開かれ、昭和史の舞台となった。

 昭和15年7月19日、第2次近衛内閣の組閣直前に開かれた「荻窪会談」では、外相・陸相・海相に就任予定だった松岡洋右(ようすけ)、東條英機、吉田善吾(ぜんご)を呼び、日独伊枢軸の強化や南進策の方針が決められた。

 日米開戦約2カ月前の昭和16年10月12日に行われた「荻外荘会談」では、第3次近衛内閣の陸相、海相、外相、企画院総裁を呼び、対米方針について会談したが、東條陸相に中国での駐兵問題での譲歩を拒否され、内閣は総辞職に追い込まれた。開戦後、戦局が厳しくなる中、早期和平工作も話し合われた。

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)からA級戦犯容疑者に指定され巣鴨拘置所に出頭を命じられた近衛はそれを拒否。ここの書斎で自決した。

 荻外荘は昭和2年、大正天皇の侍医・入沢達吉の別邸として伊東忠太が建築。12年に、空気が清浄なこの地を気に入った近衛が入沢から譲り受け住み続けた。

 「荻外荘」の名は、近衛の後見役であった元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)が命名した。

 伊東は「建築進化論」を唱え、独自の様式の築地本願寺を造った建築家で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示した日本建築学の創始者でもある。

 平成26年に杉並区が建物と敷地を取得。28年には日本政治史上の重要な場所として国の史跡に指定された。杉並区が復元整備工事に着手し、豊島区に移築されていた客間などを取得し再び移築、近衛が住んでいた当時の姿に復元した。

 令和6年12月から区立公園「荻外荘公園」として公開されている。

 様式は和風・洋風・中国風がミックスされている。旧玄関脇の応接室は中央に螺鈿(らでん)細工の施された机と椅子が置かれ、染付の壺(つぼ)や皿が飾られた中国風の部屋。重要会談が行われた客間は、和洋折衷のユニークな内装が施されている。見たことのないちょっと不思議な部屋という印象である。

 書斎は畳の和室で天井は数寄屋(すきや)風の造りだ。近衛はこの部屋で「僕の志は知る人ぞ知る」と遺言を残し、青酸カリを飲んで自ら命を絶った。その部屋の入り口に佇(たたず)み、歴史の厳粛さを思わざるを得なかった。

(藤橋 進、写真も)

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