トップ文化推古天皇による仏教立国 豪族連合から天皇王権の国へ【宗教思想】

推古天皇による仏教立国 豪族連合から天皇王権の国へ【宗教思想】

推古天皇が即位した豊浦宮(とゆらのみや)遺構跡(現明日香村の向原寺)
推古天皇が即位した豊浦宮(とゆらのみや)遺構跡(現明日香村の向原寺)

 昨年6月、日本最古の本格的な仏教寺院である奈良県明日香村の飛鳥寺跡(国指定史跡)で、1956年から57年にかけて行われた発掘調査で発見された遺物の中から、6世紀末に仏塔の地下に納められた創建時の舎利容器とみられる金属片が複数確認され、お椀(わん)形の金銅容器である可能性が高いことが判明した。仏舎利(釈迦の骨)は、588年から蘇我氏の氏寺(うじでら)として建設された飛鳥寺を支援した百済(くだら)からもたらされ、五重塔(ごじゅうのとう)の心柱を立てる礎石の基礎部分に納めた容器が安置されたとみられる。

 発掘調査により飛鳥寺の伽藍(がらん)配置や建築技法が明らかになり、朝鮮半島の先端技術によって建立された本格的な伽藍を持つことが判明した。地下式の塔心礎からは、金銅製耳飾りや勾玉(まがたま)・管玉(くだだま)、青銅製の馬鈴(ばれい)など、古墳の副葬品と同様の埋納品が出土し、古墳時代の継承と仏教寺院への移行が明らかになった。これらの発見に基づき、建立当時の飛鳥寺(法興寺)の復元模型が製作された。

創建時の方工事の伽藍模型(橿原市藤原京資料室蔵).jpg
創建時の方工事の伽藍模型(橿原市藤原京資料室蔵).jpg

 608年8月12日、隋煬帝(ずいようだい)の使者裴世清(はいせいせい)が小墾田宮(おはりだのみや)を訪れ、朝廷で隋国書の宣読と国書および国進物の進上儀式が行われた。一行を迎えたのは十二冠位の服装をした官人らで、120年ぶりに中国・隋に派遣した使節が学んだ様式を踏まえ、推古天皇の下で倭国(わこく)が当時東アジアの最先端の国造りを進めていることを示すものであった。帰国した裴世清の報告を聞き、煬帝は満足したという。

 607年に推古天皇と聖徳太子が隋に派遣した小野妹子(おののいもこ)が持参する国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあったことに対し煬帝は不快感を示したとされるが、これは仏典にある方位や仏教を信じる君主を示す用語で、倭国を上位とする意味はないことが後に分かり、煬帝は答礼の使者を倭国に派遣したのである。もっとも推古天皇は、かつてのように中国から冊封を受けることを、仏教の文化的価値を利用して巧みに回避し、あくまで対等な国としての外交関係と知識や技術の伝授を求めていた。

 593年に即位した推古天皇は史上初の女帝で、武力や経済力に優れた豪族連合の国を天皇中心の国へと変えるため頼ったのが蘇我馬子(そがのうまこ)と仏教であった。第33代推古天皇は第30代敏達(びだつ)天皇の皇后(額田部皇女(ぬかたべのひめみこ))で、馬子は叔父に当たる。同年齢の2人は、協力して倭国の近代化を目指し、そのために利用したのが仏教で、推古は「三宝興隆」の詔(みことのり)を発した。三宝とは仏・法・僧である。インドから見れば中国と日本は対等な国で、仏教的視点から対等な外交関係を求めたという知恵だ。

飛鳥寺の国宝飛鳥大仏=奈良県高市郡明日香村
飛鳥寺の国宝飛鳥大仏=奈良県高市郡明日香村

 推古天皇は、用明天皇の治世中より帝位を望んでいた異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)の誅殺(ちゅうさつ)を命じ、彼に与(くみ)した物部守屋(もののべのもりや)も滅ぼすなど男勝りな側面があり、その後、蘇我馬子と共に擁立した崇峻(すしゅん)天皇が独自路線を歩むようになり、馬子が殺害したのも容認した。それを受け、群臣の推戴により天皇として即位したのである。

 次に推古天皇が目指したのは、豪族の連合体から天皇王権の国へと変えることであり、そのためには皇位継承者を群臣推挙ではなく天皇が選ぶ必要があった。推古天皇の意中の人は聖徳太子だったが49歳で亡くなったため、敏達天皇の孫の田村皇子(たむらのおうじ)か太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)に絞られた。

 推古天皇は崩御の前日、2人を枕元に呼び、田村皇子には、慎重に物事を明察するよう諭し、山背大兄王には、未熟であるため他人の意見を聞くよう誡(いまし)めた。明確な後継指名は避けたが、群臣会議で推古帝の意向として田村皇子が推挙され、舒明(じょめい)天皇が即位した。以後、日本は天皇の国として、唐の律令(りつりょう)制に学びながら中央集権の国造りを進めたのである。

(多田則明)

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