
ロマ書の1章1節から7節までを、内村は「パウロの自己紹介」と題して、第2講から第5講まで、4回にわたって論じた。
短い文章で読み過ごしてしまいそうだが、一語一語、詳細に解説した。
その理由は、この短い文章によって、キリスト教の教義となる核心部分が語られているからだ。福音書はイエス・キリストの言行録であって、キリスト教の教義を語ったものではなかった。パウロによって初めてその形を現してくる。内村はこの部分を直訳と意訳で示した。2節以降、現代語訳ではこうだ。
「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子(みこ)に関するものである」「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力(みちから)をもって神の御子と定められた」「わたしたちは、そのみ名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務めとを受けたのであり、あなたがたもまた彼の中にあって、召されてイエスキリストに属するようになったのである」
この文章のうち、第5講では、「わたしたちは、彼によって恵みと使徒の務めを受けた」を解説する。
すべての恩恵は神よりキリストを通してくださる、というのが聖書の教えであり、実験上の真理だという。
ところが近代の信者になると、人は皆神の子なのだから仲介者によって神に連なることを厭(いと)い、各自が直接連なるべきだと主張する。
内村はこの考えは間違いだという。キリストを除いて神と人との関係を近くしようとしても、かえって遠くなる。人はキリストなくして神と連なることができないからだ。キリストを仲介にして初めて恩恵が下り、霊的な生命が得られるのだと。これが歴史的な事実なのだと。
次に「すべての異邦人を信仰の従順に至らせるように」という言葉を解説する。
「従順に至らせる」という言葉を内村は「信仰の服従に入らしめんために」と訳し、「服従」について論じる。
服従という言葉は誰もが嫌うが、キリスト教徒の体験によれば「信仰の服従」こそ人を自由と独立に至らしめるものなのだという。
「見よ、服従すべき者に服従するをいといて絶対の自由境に至らんと志して、かえって物欲の奴隷となれる現代人の惨状を。実に現代は、あらゆる権力の支配をのがれんとして全然無服従の生活に憧憬(しょうけい)し、国家の権能より、道徳の権能より、また神の権能より脱せんと焦燥せる時代である」
人は服従すべきものに服従してこそ自由独立の人になる。これは教義というより内村自身の人生体験だった。
(増子耕一、写真も)





