トップ文化小川俊樹著『五・一五事件』 禍根残したテロに甘い判決【昭和100年を読む】

小川俊樹著『五・一五事件』 禍根残したテロに甘い判決【昭和100年を読む】

小山俊樹著『五・一五事件』(中公新書)
小山俊樹著『五・一五事件』(中公新書)

 昭和7年、天皇親政の「昭和維新」を唱える海軍の青年将校らが犬養毅(いぬかい・つよし)首相を暗殺し、内大臣邸、警視庁を襲撃した五・一五事件。この事件後、政党政治は終焉(しゅうえん)し、軍部が台頭。その後、日本は対米開戦そして敗戦への道を辿(たど)っていく。

 このような昭和史の大きな転換点となった事件ではあるが、その4年後に起きる二・二六事件に比べると、これまで十分に掘り下げられることがなかった。

 小川俊樹著『五・一五事件』は、事件とそれを裁く裁判を検証し、昭和史における意味を問うている。ポイントは①海軍青年将校たちはどうして事件を起こしたのか②なぜ政党政治は終わったのか③なぜ国民の多くが青年将校たちに同情し、減刑を嘆願したのか―。

 昭和恐慌による国民の困窮、軍縮条約への不満を背景に、大川周明(しゅうめい)、北一輝(いっき)、橘孝三郎、井上日召(にっしょう)らの思想的影響を受けた海軍の三上卓、古賀清志らは国家改造を目指すクーデターを計画する。

 しかし予定が相次いで狂ったため集団テロに縮小。犬養首相は、当時の「支配階層」の象徴として暗殺されたと著者はみる。

 テロによって倒れた犬養首相の後任には、「憲政の常道」に従い、同じ政友会の鈴木喜三郎総裁を元老の西園寺公望(きんもち)は考えていた。しかし、腐敗した政党政治を見限っていた昭和天皇は「首相は人格の立派なるもの」など3項目の「希望」を西園寺に伝えていた。著者はその中に鈴木案の再考が含まれていたという。結局、海軍大将の斎藤実(まこと)を首班とする挙国一致内閣の誕生となり、閣僚10人のうち衆院議員は3人に激減する。

 事件に対する国民の反応は当初、犬養首相に同情的だった。右翼団体による減刑運動も起きるが、一般国民は冷静だった。ところが約1年後、陸軍省、海軍省、司法省の3省が共同で事件の概要を公表。その中で犯人たちの動機は「国家の革新を遂げ、真の日本を建設」することにあり、「至純」なものであるとする見解を示す。この報道を受け、斎藤内閣の荒木貞夫陸相や大角岑生(おおすみ みねお)海相も同様の談話を発表する。

 著者はここに「軍側による報道論調への誘導さえも感じられる」と言う。

 そうして公判が始まり、減刑運動の広がりを伝える報道が行われると、青年将校らへの同情的な世論が盛り上がりを見せるようになる。青年将校たちを赤穂(あこう)義士になぞらえたり、「昭和維新行進曲」と題するレコードまで作られたりする。

 海軍軍法会議の論告で、首謀者3人に死刑が求刑されるが、判決は、禁錮15年、13年と驚くほど軽いものとなる。

 著者は、そうなった背景にロンドン条約に反対した艦隊派による巻き返しがあり、「陸海軍青年将校の不穏な情況」を伝えられた大角海相が有期刑とするよう量刑にまで関与したことを重視する。

 結局、世論と海軍内の事情で、甘い判決を下したことが、その後の二・二六事件に繋(つな)がる。本来なら粛軍へと向かうべきところが、ますます軍の独走を招く結果となったのだ。

 この無原則な場当たり的対応が、後のより大きな悲劇へと繋がったことをわれわれは知っている。

 しかし安倍晋三元首相の暗殺事件への対応を見ても、今も日本はテロに甘く、場当たり的対応が多い。同じような悲劇が起きないとは言えないのである。

(特別編集委員・藤橋 進)

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »