
パウロを解説する内村の講演は、内村が自分のことを語るような趣があり、これはもう一つの自叙伝のごときものだと感じさせられる。
パウロの自己紹介文は極めて短いが、講演では1講から5講に及んだ。内容は3点にすぎない。
「イエス・キリストのしもべ」「召されたる使徒」「神の福音のために召されたる」の解説だ。
「しもべ」の意味は独特のもので、一般の使われ方とは違う。原語は「ドゥーロス」で奴隷を意味するという。
イエスの弟子、兄弟、友を自称する人たちはいた。パウロはそれに加えて奴隷の概念を付加した。
その意味するところは〝絶対服従〟。弟子や友や兄弟は絶対服従はしないのであり、背くことも、批判することも、捨てることもある。
しかしわれらは何よりも彼の「しもべ」でなくてはならぬという。
「水に入れといわるれば水に入り、火に入れといわるれば火に入り、死せよといわるれば死す。主の命これに従い、主のために死するをもって、おのれの名誉、特権、幸福とする。実にクリスチャンはキリストに対しこの種の関係においてあらねばならぬ」
自己の有形無形の所有全部―その生命までをも―彼に捧(ささ)げる心があって初めてクリスチャンたるのだという。凄(すご)い世界だ。人の奴隷となれば自由を喪失するが、キリストの奴隷となるのは自由を確保し永遠にそれを所有する道。またパウロはキリストの生前に任命された「十二使徒」ではなかった。使徒なる語はすべての伝道者を指した語ではなく、ある種の伝道者、意味においては大使アンバサダーを指した語で、自国主権の代理者として他国に赴けるもの。
パウロが使徒であるというのは異邦人に遣わされたキリストの代理人という意味だ、と内村は解説する。低い位置にあるしもべと高い位置にある大使と並べたことで、パウロをグレート・コントラストの人と呼ぶ。彼の位置は低くそして高い。奉仕者でありまた権能を持つもの。
ここに「召された」という形容詞が付く。この語から内村が想起するのは始祖アブラハムであり、国祖モーセであり、イザヤをはじめとする預言者たちだ。
「われ、なんじを腹に造らざりし先になんじを知り、なんじが胎を出でざりし先になんじを聖め、なんじを預言者となせり」とエレミヤに語った如(ごと)く、彼らはその職に就いた。
パウロもまたそうであり、彼の使徒たるは「召されたる」という事実の他に根拠のなきものだった。神学校を卒業して牧師試験に及第したという事例とは、意味が異なるというのだ。
内村もまた召され、キリストに絶対服従した人だったのでこれを語ったのだ。
(増子耕一、写真も)





