
パウロは3回、東地中海を舞台に伝道の旅をした。3回目の伝道旅行の途中、紀元57年ごろ、ギリシャのコリントにやって来て、3カ月間とどまった。最後の目的地はエルサレムと予定していたが、以前から胸に秘めていた地がローマだった。
ローマの信徒たちとは面識がなかったが、ローマ帝国の首都で、伝道の上で重要な位置を占めている。ぜひともそこまで足を延ばして訪問し、さらに欧州西端のイスパニアまで福音を伝えたいと思いは膨らんだ。
結局、エルサレムへの責任を優先し、ローマへは行かなかったが、燃え上がる心情からローマの信徒たちに公的書簡を記して送ることにした。これがロマ書だ。書簡だが内容から言って、内村は「一大論文」と言い、「大建築物」と例えた。
「ロマ書を研究するは、あだかも一大建築物を表門より入りて裏門に出づるまで巡覧するがごときものである」と解説し、「全体として壮麗であると共に、その個々の室がまた壮麗にして、吾人の目を驚かすのである」。
表門「自己紹介」、廊下「あいさつ」、本館3棟「個人の救い、人類の救い、信者の道徳」、裏門「私用、告別、祝福」と構造を示す。門には「義人は信仰によりて生く」との標語がある。
第2講から第5講まで、4回にわたって講演したのが「パウロの自己紹介」についてだ。ロマ書1章1節から7節まで。1節での自己紹介の言葉は「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから―」。
ここで始めなければならなかったのは、相手が未知の信者たちだったからで、自己との間に一致点を見いだして、連結しなければならなかった。使われた言葉を内村は絶賛した。その技巧についてだ。
「げにパウロはギリシャのコリントより、アデリヤ海を越えて、イタリア半島のローマ府まで、いみじくも橋を架したるかな。これ技巧の生みたる技巧ではない。愛の生みたる技巧である」
愛の技巧であり、聖(きよ)き技巧だという。パウロ、しもべ、使徒と、己が何者かを述べ、発信者の性質を説明した。続く2節ではこの福音の何たるかを語る。「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである」。そしてこの御子とは何者かを語り、5節以下、なんじらも異邦人の中にあって「イエス・キリストに属する者となった」と受信者の性質を語る。
パウロはこのように迂回(うかい)路をたどって両者の一致点を結び付けたと解説する。内村の言葉は内村自身の伝道、牧会、説教、信徒のケアなどの体験に裏付けられて、パウロの言葉を自身を語るかのように語る。
(増子耕一、写真も)






