
2011年初版の古川隆久著『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(中公新書)はその年のサントリー学芸賞を受賞した昭和天皇の評伝。このほど、その後公表された重要な新資料の内容を入れた増補版が昭和100年を機に出された。
昭和天皇の伝記、評伝は少なくないが、本書は実証的な方法による記述をモットーとする。昭和天皇が青年期に至るまでどのような教育を受け、その思想を形成していったかに重点を置いたのが特徴といえる。
将来の天皇に帝王学を授けるために設けられた東宮御学問所で、昭和天皇は杉浦重剛から儒教的徳治主義、白鳥庫吉(くらきち)からは実証的な歴史、清水澄(とおる)から天皇機関説に近い法制経済を学んだ。「花」の時代と回顧する欧州歴訪も大きな影響を与えた。さらに青年時代は吉野作造に代表される大正デモクラシーの時代であり、その空気をたっぷり吸った青年君主として位を継いだ。
政治思想としては、政党政治を基盤とした大衆的な立憲君主を目指し、ダーウィンを尊敬する生物学者でもある昭和天皇は、天皇を神格化し絶対視する「狭義の国体論」は信じていなかった。ポツダム宣言受諾に際し、「国体護持」を危ぶむ陸軍などの反対を抑えて終戦の聖断を下せたのはそのためだという。
著者の実証的な資料批判は、下村宏情報局総裁の『終戦秘史』にも向けられる。ポツダム宣言受諾を決めた御前会議で、昭和天皇が「自分は如何(いか)になろうとも万民の生命を助けたい」と述べたとする記述について、列席者の証言がなく、事実ではないだろうという。実際そのような発言はなかったのかもしれない。
ただ昭和天皇が終戦時の御心境を詠まれた4首の御製(ぎょせい)の中に「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」がある。昭和天皇が下村総裁の記したような御心境であったことは疑いないだろう。
4首の御製の中には、「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」がある。「国がら」とはかつての「国体」に他ならない。この御製が戦後の御製集『おほうなばら』に採られなかったのも、そのためだろう。昭和天皇が著者の言う「狭義の国体」を信じていなかったのは確かだと思われるが、「広義の国体」を守ることに心血を注がれた。
新資料としては、戦後の初代宮内庁長官田島道治(みちじ)による『昭和天皇拝謁記』が重要だ。この新資料で昭和天皇が憲法改正と再軍備が必要と考えていたことが明らかになる。統治を総覧する元首から象徴へと憲法上の位置付けは変わったが、昭和天皇の国家国民に対する責任心情は戦前も戦後も変わらなかった。
国内的には民主的な立憲君主、対外的には普遍的価値を尊重し協調外交を展開しようとした昭和天皇だが、時代がそれを許さなかった。本書を通しそのような昭和天皇像が浮かび上がってくる。しかし一方で天皇においては、宮中祭祀(さいし)を務めるなど祭祀王の側面にも重いものがある。近代的民主的な政治思想と古代から伝わる祭祀王の世界が昭和天皇においてどのように統一されていたのか。これからの皇室にも問われるテーマだ。
(特別編集委員・藤橋 進)






