トップ文化半島出兵を機に本格移入 埴輪が語る古代の馬 生産の担い手は渡来系の人々【文化】

半島出兵を機に本格移入 埴輪が語る古代の馬 生産の担い手は渡来系の人々【文化】

はにわ
はにわ

 日本人と馬の関係を振り返る時、まず浮かんでくるのは、「その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲はいない」という『魏志倭人伝』での記述だ。魏の使者がやって来た3世紀後半ごろ、日本には、牛などとともに馬もいなかった。日本在来馬の先祖となる馬がこの列島に本格的に移入されるのは、古墳時代に入ってからだ。

 その大きなきっかけとなった事件と考えられるのが、朝鮮半島への出兵である。それについての記録は、『日本書紀』や中国の史書、韓国の『三国史記』、中国吉林省集安に存在する高句麗好太王(広開土王)碑にある。好太王碑には、辛卯(かのとう)391年、倭が海を渡り、高句麗の配下にあった百済などを討って臣下としたため、396年、広開土王は兵を起こし、400年と404年にも大軍を起こして倭軍を退けたことが記されている。

 この時、倭の軍が戦ったのは高句麗の騎馬軍団だった。4世紀後半から5世紀初頭に築造された安岳3号墳(北朝鮮黄海南道)や徳興里古墳(南浦特別市)には、重武装の騎馬兵が描かれている。

馬型はにわ
馬型はにわ

 考古学者の若狭徹氏は新著『馬と人の古代史』(角川選書)の中で、倭軍が高句麗の騎馬軍団に遭遇したことを「それは、歩兵が初めて戦車に遭遇したような衝撃であっただろう」と述べる。この衝撃が大和王権を、馬の本格的移入に向かわせた。

 日本における古代の馬の姿を物語るのが、馬を象った埴輪だ。2024年に東京国立博物館他で開かれた「特別展『はにわ』」でも代表的な数点が展示された。その中で目を引いたのが、埼玉県行田市の酒巻古墳出土の「旗を立てた馬形埴輪」(6世紀)。鞍(くら)の後輪(しずわ)に湾曲した筒のようなものが伸び、その先に別作りの旗が付いている。

 同展図録では、「蛇行状鉄器とみられる鉄製品が、馬に装着した旗竿であるという説明したのが、この埴輪」と解説されている。馬に乗る人の背後を守るとともに、人と馬を立派に引き立てるためのものであったらしい。この旗竿(はたざお)は高句麗壁画の騎馬兵にも描かれたものがある。

 このように日本の馬生産、騎馬文化は朝鮮半島から導入され、初期の担い手も渡来系の人々であった。主要な馬の産地となる長野盆地は日本海を経由して半島と独自のルートを持ち、特に百済との繋(つな)がりが深かった。若狭氏は長野盆地での馬の生産が、渡来系の人々から在地の日本人に広まって行く様子を積石塚古墳の分布などから分析している。

 「特別展『はにわ』」の会場で来場者を歓迎するように展示されていたのが、ゆるキャラ埴輪の代表とも言うべき埼玉県熊谷市野原古墳出土の「踊る人々」だった。踊っている姿を表すとされるこの2体の埴輪だが、実は踊っているのではなく、馬を引いているという説がある。

 展覧会の図録では諸説あるとしながらも、否定的な見方が記されているが、若狭氏の同書は明確に「馬引き人」の説をとっている。その根拠として若狭氏は、群馬県綿貫観音山古墳で馬形埴輪と一緒に出土した「馬引き人」の埴輪と同様、腰帯の背中側に馬草を刈るための鎌を差していることを上げる。かなり説得力があるように思える。

 半島から騎馬文化を輸入した日本は、6世紀前半、継体天皇の頃には百済に馬を輸出し、続く欽明天皇が百済の要請に応え馬100頭を軍事支援するまでの馬の産地となった。ただ若狭氏によると、日本で騎馬戦術が本格的に用いられるようになったのは、672年の壬申の乱からという。大友皇子の敗因は東国騎兵を動員できなかったことにあったという。馬が日本の歴史を大きく動かした最初の出来事だった。

(特別編集委員・藤橋 進)

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