トップ文化庭に息づく武家の気風 日本三名園の一つ、岡山・後楽園 園内に井田と茶畑 「農」と繋がる出自を意識

庭に息づく武家の気風 日本三名園の一つ、岡山・後楽園 園内に井田と茶畑 「農」と繋がる出自を意識

唯心山からの眺め、右手に矩形(くけい)の井田がある
唯心山からの眺め、右手に矩形(くけい)の井田がある

 水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並び、日本三名園の一つとされる岡山の後楽園を訪ねた。中央の大きな池の周りを巡りながら楽しむ回遊式の大名庭園で、国の特別名勝に指定されている。

 旭川を挟み岡山城の対岸に広がる庭園は、岡山藩主池田綱政が貞享(じょうきょう)4(1687)年に着工、元禄13(1700)年に一応の完成をみる。綱政の父は、江戸初期の三名君の一人、池田光政。現在、約4万坪(約13万平方㍍)の庭園も、当初は2万7千坪ほどだったが、その後、歴代藩主の好みによって手が加えられていく。

 正門から園内に入ると視界が広々と開け、庭園のほぼ全体が見渡せる。「沢の池」を中心にあちこちに築山や茶亭が配されている。岩と樹木の組み合わせで幽邃(ゆうすい)な雰囲気を出す京都の寺院の庭などの印象とはだいぶ違う。芝地が多いのも意外だった。しかし、この眺めの良さ、豪快さが、武家の気風なのだろう。

 藩主が居間とした延養亭(えんようてい)を起点に反時計回りで巡る。鯉(コイ)が泳ぐ小さな池を前に廉池軒(れんちけん)という茅葺(かやぶき)の田舎風家屋がある。なかなか風情がある。パンフレットの説明を読むと、「池田綱政が最も好んで利用した」とあり、なるほどと思う。

綱政の子、継政が造ったという高さ6㍍の築山、唯心山(ゆいしんさん)は形こそどうということもないが、登って庭園を眺めるにはいい。庭園の眺望としては、沢の池の北側から中の島、御野島(みのしま)や唯心山を望むのが最も優れていると思われた。岡山城も借景になっている。

園内の茶畑
園内の茶畑

 とはいえそれらの眺めより、庭園を一回りして、最も印象深かったのは、かつて園内に広がっていた田畑の名残である「井田(せいでん)」と茶畑だった。茶畑は綱政の時から続く本格的なもので、2500平方㍍に1800本が植えられている。園内に場違いで野暮(やぼ)ったくも見える畑が残っているのは、もともとが菜園だった場所に造られたこともあるが、もっと精神的なものがあるようだ。

 農学博士の白幡洋三郎氏は『大名庭園』(講談社選書メチエ)で「もともと武士は在郷から出た層であり、支配階級となってからも、農民、農事との関係を密にもつものだった」とした上で、次のように述べる。

 「フランスのバロック庭園様式を生みだした王侯貴族の庭園文化が、絶頂期に至る頃から田園趣味をとりいれたのと似た気分もなくはなかったろう。しかし畑を設け、茶畑を園内にとりいれることは、出自を忘れぬこと、始祖の初心に帰れといった言説がことあるごとにあらわれる武家社会の精神を反映しているとみた方がよい」

 ちなみに「後楽園」の名前は、中国北宋の政治家、范文正が『岳陽楼記』に為政者の心構えとして記した「先憂後楽」の精神からきていることはよく知られている。ただ、この名前は、水戸光圀が朱舜水の勧めで、江戸の小石川の庭園に命名したもので、岡山の後楽園は、江戸時代は城の後ろにあるということで「後園(こうえん)」と呼ばれていた。それが「後楽園」となったのは明治4(1871)年のことだ。パンフレットはその理由を「『先憂後楽』の精神に基づいて造られたと考えられることから」と記している。

(特別編集委員・藤橋 進、写真も)

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