NHKの朝ドラ「ばけばけ」で描かれている明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は明治27(1894)年、居留外国人向けの英字新聞「神戸クロニクル」の記者になり、熊本から神戸に移り住んだ。第五高等中学校の英語教師から本来の職業である記者に戻ったのである。
神戸市中央区下山手通にある今の兵庫県中央労働センター敷地内に居宅を構えた八雲は、『心』や『仏の畑の落穂』などを執筆した。神戸で暮らしたのは1年9カ月だが、長男が生まれた八雲は明治28(1895)年に帰化願いを出し、翌年2月に小泉八雲として妻の籍に入った。 八雲は出雲国の枕詞(まくらことば)「八雲立つ」から取った。

平成6(1994)年、八雲が神戸に住んでから100年の節目に中央労働センターの玄関前に記念碑が建てられ、1階ロビーには「小泉八雲コーナー」が設けられている。

そのハーンを文学の師として尊敬し、日本の風俗や文化をポルトガルの新聞に発表したのが、明治32(1899)年に在神戸ポルトガル副領事として赴任し、後に総領事になったヴェンセスラウ・デ・モラエスである。
モラエスは1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれ、海軍士官になり、1889年に初来日して日本の自然に魅了された。モラエスは、明治の日本でイギリスやフランス、ドイツが影響力を強めるのに反し、衰退気味の母国のため懸命に働く傍ら、ポルトガルの新聞に「日本通信」を連載し、人気を博した。ポルトガル語で発信したため、英語のハーンほどは世界に知られなかった。
神戸で芸者のおよね(福本ヨネ)に出会ったモラエスは、その清楚(せいそ)な美しさに魅了された。芸者をやめて徳島に帰り、餅屋で働いていたおよねを訪ねたモラエスは、親戚を説得して明治33(1900)年に生田神社で結婚式を挙げた。モラエス46歳、およね25歳で、およねは領事夫人として神戸の外国人の間で評判になり、共に過ごした日々がモラエスの最も幸福な時代となった。

しかし、結婚生活13年目の明治45(1912)年、およねは病死し、モラエスは彼女の墓を、生まれ故郷の徳島の寺に建てた。そして、帰国すれば海軍の年金がもらえるのにそれを放棄し、日本に永住する道を選んだ。モラエスが終焉(しゅうえん)の地を徳島に定めたのはおよねが眠っているからで、墓守りをしながら文筆に専念する。
念頭にあったのは、ハーンが出雲で書いた作品で、同じような仕事が徳島でならできるのではないかと考えたという。およねとの幸せな日々を回想しながら執筆に打ち込んだモラエスは、孤独ながら充実した晩年を送り、大正8(1919)年、75歳で徳島の土となった。

日本滞在が長くなるにつれ、カトリックから離れたモラエスの宗教について数学者の藤原正彦は父新田次郎との共著『孤愁(サウダーデ)』(文春文庫)に、「仏教の慈悲、輪廻、因果応報、諸行無常などに神道を加えた祭壇に、サウダーデを祀った新しい宗教であった。日本とポルトガルを融合させた新しい宗教であった」と書いている。
英訳の『古事記』に引かれて来日したハーンは、人々の暮らしに触れ、日本は死者と共に生きる国だと思うようになる。ハーンの感性は、キリスト教以前の自然信仰、精霊信仰が息づくケルト系とギリシャ系の両親から生まれ、アイルランド人の乳母から民間伝承を寝物語に聞いたことで培われた。少年時代、家にいる幽霊や精霊が見えたという。
モラエスは『徳島の盆踊り』に「死者崇拝は日本では実に厳粛に、真摯に、恭しく行われるので、迷信というようなありきたりの呼び方はできない。…異国人にも畏敬の念を抱かせる信仰と呼ぶべきである」と書いている。
(多田則明)






