
明治23(1890)年に来日し、紀行や評論、物語を書いて日本を欧米に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。来日した年の8月に島根県尋常中学の英語教師として松江に赴任し、そこで伴侶となる小泉セツと出会う。松江市には松江城の北側、お堀に面した武家屋敷の一画に八雲の旧居が残り、新しく建てられた記念館が隣接している。
記念館に入ると、現在放送中のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」でもお馴染(なじ)みとなった八雲が着ている白いジャケットや帽子、トランクの展示に目が行く。西洋人にしては小柄(約157㌢)だったことが分かる。展示は、まず八雲の生涯を編年で紹介しているが、特に日本に来るまでの軌跡が興味深い。
八雲は19歳で単身、米国に渡ってから多文化的色彩の強い南部のニューオーリンズでジャーナリストとして活躍する。西インド諸島にも取材に出掛けた。そこで八雲が撮影、あるいは収集した写真が展示されているが、文化史的にも貴重な資料という。
そのような異文化に接しながら八雲が、展示のコンセプトとなっている、開かれた心「オープンマインド」を育てていったことがよく理解できる。西洋知識人が陥りがちなオリエンタリズムの偏見を持たず、日本文化を見ることができたのはそのような経験があったからだ。
八雲が影響を与えた科学者、思想家として、八雲の著作を読んで日本に興味を持ち来日したアインシュタインやレヴィ=ストロースが紹介されている。
特にレヴィ=ストロースに対する影響は本質的なもので、八雲の著作が『野生の思考』論や構造人類学にも影響を与えたといわれる。
隣にある旧居は、松江藩士、根岸家の武家屋敷だったもので、八雲とセツが明治24(1891)年に転居し、約5カ月間過ごした。この住居について八雲は『日本の面影』(池田雅之訳、角川文庫)の中の「日本の庭にて」の章で次のように書いている。
<私はすでに自分の住まいが、少々気に入りすぎたようだ。毎日学校の勤めから帰ってくると、まず教師用の制服からずっと着心地のよい和装に着替える。そして、庭に直面した縁側の日陰にしゃがみこむ。こうした素朴な楽しみが、五時間の授業を終えた一日の疲れを癒してくれる>
<壊れかけた笠石(かさいし)の下に厚く苔蒸した古い土塀は、町の喧騒さえも遮断してくれるようだ。聞こえてくるものといえば、鳥たちの声、かん高い蝉の声、あるいは、長くゆるやかな間をあけながら池に飛びこむ蛙の水しぶきだけである>
旧居の書斎に充てられた部屋には、八雲が使用した座高の高い机と椅子が置かれている。これは16歳で左目を失明し、右目もひどい近眼で眼鏡を使用しなかった八雲が、読んだり書いたりするために特注した物という。
「日本の庭にて」には、卓抜な八雲の日本庭園観も披歴されている。
<日本の庭は、実際にありえないような風景を、あるいは完全無欠な理想の風景を造り出そうとしたりはしない。庭が芸術として目指すのは、現実の風景の魅力を忠実に模倣し、本物の風景が伝えるのと同じ印象を同じように伝えることにある。それゆえ、日本の庭園は、庭であると同時に、一幅の絵であり、一篇の詩であるともいえる>
欧米の庭を見てきた八雲だから語れる日本庭園の特長だ。このエッセーでは、ほかに庭の池に棲(す)む蛙(カエル)や蛇、夏の間じゅう鳴いていた蝉(セミ)など小動物への愛情に満ちた観察も綴(つづ)られる。八雲は小動物へも心を開いていた人だった。
(特別編集委員・藤橋 進、写真も)






