
『ロマ書の研究』は60回に及んだ連続講演が基になっている。毎回、弟子の畔上(あぜがみ)堅造が筆記し、加筆して、『聖書之研究』に掲載。畔上の文章なので内村は共著として出版するつもりだったが、結局、共著とはしなかった。
しかしその経緯は本の冒頭に正直に記されている。
「自分の著作のようにやってくれ」という内村の言葉だったが、違和感を覚えたのか途中の34回目から自ら用意した講演原稿を併せて掲載するようになる。
『ロマ書の研究』が掲載された『内村鑑三著作集 第十五巻』(昭和29年、岩波書店)では、1回から33回までの分が削除されている。編集者が内村の文章ではないと判断したのであろう。『内村鑑三聖書注解全集 第16巻』(昭和36年、教文館)では、『聖書之研究』に掲載された通り、両者を載せている。
畔上と内村の文章を比較すると、文体の違いは明らかで、後世の者から見れば内村のものより畔上の方がずっと読みやすい。これは世代の違いでもあり、明治期に改革されつつあった文章表現が絡んでいるのだろう。
内村は1861年の生まれ。畔上は1884年の生まれ。親子ほどの歳(とし)の差だ。畔上は長野県上田町生まれで、早稲田大学予科在学中の1904年に内村の門下生に。06年同大学文学部哲学科を卒業した後、千葉県で学校の英語教師となる。11年に職を辞し、千葉県東金町の農村伝道を開始。19年に上京して内村の助手に。27年から上落合の自宅で家庭集会を持つ。
内村がロマ書の研究に着手する以前、畔上は「羅馬書研究」を『聖書之研究』(第208号、1917年11月号)に掲載し、同第221号1918年1月号まで13回にわたって連載した。
内村はこれを読み、高く評価し、内村もこれに負うところがあったので、「共著にしよう」と言ったのだろう。
内村の『ロマ書の研究』第一講「ロマ書の大意」の中に次の一節がある。
「この一小著述中に、全世界を幾度も改造した歴史を有し、なお将来も、しかする力を具備せる一書の含まるるは、真に奇跡中の奇跡であるといわねばならぬ。この一書こそ、実にわれらの今回の研究の題目たるロマ書である」
畔上は「羅馬書研究(一)」を掲載した『聖書之研究』の同じ号に「教史概観」という論文を載せ、違った表現でこう記した。
「欧州史に於ける大変動の創始者として史家は三人を数ふ、曰く使徒パウロ、曰く聖オーガスチン、曰くマルチン・ルーテル、この三人を繋ぐ線を更に現代まで伸ばす時欧州心霊史―従って又欧州歴史そのもの―の骨子があらはとなる、但し忘れてはならないことは此線の起点にイエスキリストの立つ一事である」
イエスの12弟子たちは真正な伝道者だったが、彼らの心に民族はあっても世界はなかった。小さな器に盛られた生命の水は豊かで、世界に流れていかざるを得なかった。イエスも、世界も、必要としたのは伝道師。敵であったタルソから召命されたのがパウロで、「母の胎にありし時より選びおかれた器であった」(ガラテア書1章15節)。
内村と畔上とは共同研究者だったようだ。
(増子耕一、写真も)






