国の特別天然記念物トキの初の本州での放鳥が来年6月、石川県羽咋(はくい)市で行われる。その日を心待ちにするのが、70年間にわたりトキ保護活動を続け4月に100歳となった羽咋市在住の村本義雄さんだ。

平成10(1998)年に、トキ保護活動の歩みの中で詠んだ歌を纏(まと)めた歌集『ニッポニア ニッポン―わが愛せし朱鷺―』(新歌人叢書〈そうしょ〉第69輯〈しゅう〉、北國新聞社)を上梓(じょうし)している。歌集には村本さんのトキへの思いと保護への一途な歩みが凝縮されている。

村本さんは、来年トキが放鳥される同市南潟地区に近い眉丈山(びじょうざん)の麓の生まれ。《幼き日分校の上翔ぶ朱鷺を六羽七羽と数えたること》の歌にあるようにかつて、トキは身近な鳥だった。しかし戦争中にトキの生息環境は悪化、さらに戦後の開発や農薬の使用によって、その数は激減していった。
昭和27年ごろ、村本さんが鳥類図鑑を1冊買ってトキを調べてみると重大な誤りがあることに気付く。その図鑑には能登のトキは既に絶滅し佐渡島に少数生息するのみと書いてあった。この誤りを正すためには、実際に生息するトキの写真を撮る必要があると考え、中古の写真機を購入し、その撮影に取りかかる。しかし、警戒心の強いトキの撮影は容易ではなかった。
《山深き黄昏どきの朱鷺の声かすかに聴きしテントの中に》はその時の歌。そして昭和31年8月16日、村本さんは池で餌を漁(あさ)るトキを見つけ、池に浸かりながら撮影に成功する。
《静かなる池の水面に首出して朱鷺を撮影〈うつ〉せし我の若き日》
この撮影を機に保護活動は大きく動きだす。しかし、その道は平たんではなかった。トキの密猟を防ぐため禁漁区の拡張に奔走するが、反対する地元猟友会のメンバーから脅されることも。それでもひるむことなく、保護団体を結成し禁猟区の立て札を立てるなどして活動を続けた。
《保護の札背負いて吾の先に行く子等の願いは朱鷺の舞う空》
地元や石川県に働き掛けるが、それにも限界を感じ、上京を決意。文部省や石川県出身の日本野鳥の会の創設者、歌人でもある中西悟堂を訪ね、能登のトキ保護を訴えた。
悟堂宅での面会は、当初30分とされたが、結局明け方まで続いた。その時を回顧したのが《「三十分」はいずこにゆきしや朱鷺の保護語りてすでに丑三の刻》。
トキの生態研究に取りかかり、どんな餌を食べているのか、糞(ふん)を採集して調べた。
《熊笹に落ちいる朱鷺の白き糞を集め来て食性探る》
副題にあるように、村本さんが詠むトキの歌には、トキへの愛情が溢れている。
《上京の夜行列車の吹雪く窓朱鷺は如何にかこの夜を寝ぬる》などその代表だ。
一方で生態研究者としての科学的な観察眼を感じさせる。
例えば《湧き水の潺々(せんせん)流るる田の隅に朱鷺は餌あさる冬の夕暮れ》は、単なる叙景ではなく、冬場のエサの確保がトキには死活問題だという意識が背景にある。
《巣立つ日の近きか幼鳥羽搏きて枝移り為すを飽かずに見つむる》なども愛と観察眼から生まれた歌と言える。
能登のトキは結局1羽になり、捕獲して佐渡に移すことになる。
《捕獲する最後の朱鷺を撮影さむと待つ穴水湾に雪の舞い降る》《絶滅の近きを知れば知る程にケージの中の朱鷺ぞ愛しき》はこの時の歌。
昭和44年、村本さんは日本鳥類保護連盟の常陸宮総裁賞を受賞する。《陰口に気違いなどと言わるるもわれ一筋にこの道を来し》はその時の感慨を詠んだものだ。
「いずれの作も率直明快、見たまま感じたまま、思ったままを、気持ちも言葉も、飾ることなく偽ることなく詠んでいる」と「新歌人」主宰の尾沢清量氏が「跋」に記している。
(特別編集委員・藤橋 進)






