トップ文化日本遺産になった香川県多度津町 北前船で交易と信仰の玄関口に 江戸後期、金毘羅参り盛んに【宗教思想】

日本遺産になった香川県多度津町 北前船で交易と信仰の玄関口に 江戸後期、金毘羅参り盛んに【宗教思想】

日本遺産の看板を掲げた多度津港
日本遺産の看板を掲げた多度津港

 香川県多度津町は令和元(2019)年、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」に追加認定され、文化財12点が日本遺産に登録された。

 多度津は古くからの港町で、江戸時代の元禄7(1694)年に多度津京極藩領になると本州からの玄関口として栄え、天保9(1838)年に整備された多度津湛甫(たんぽ)は北前船の寄港地となった。

 湛甫とは港のこと。弘化4(1847)年に発行された「金毘羅(こんぴら)参詣名所図会(ずえ)」には、多度津は高松藩の高松港、丸亀藩の丸亀港に並ぶ港として栄えていると書かれている。

 やがて廻船業で商人たちが活躍するようになり、港に接続する桜川の河口には交易品を納める海鼠塀(なまこべい)の蔵が、本通の町並みには町屋形式の住宅が立ち並んだ。さらに、琴平まで徒歩3~4時間という近さから、江戸後期に多度津を起点とした金毘羅参りが盛んになり、商人らが「多度津金毘羅街道」を整備した。

 廻船業で大成した7家(武田家3家、塩田家2家、合田家、景山家)は「多度津七福神」と呼ばれ、彼らの財力により明治の近代化も四国で先駆けて行われた。また高見島や佐柳島(さなぎじま)では多くの船乗りが出て、周辺の塩飽(しわく)諸島も合わせた「塩飽大工」は北前船の発展に寄与した。 金刀比羅宮(ことひらぐう)への参詣者の多くは西回りの北前船を利用して、北日本、山陰、九州、広島などから多度津港にやって来た。港には旅館が立ち並び、街道沿いには道標や常夜灯が設置された。灯籠や鳥居には雲州(島根県)や防州(山口県)、芸州(広島県)、予州 (愛媛県)、尾州(愛知県)などからの寄進者の名が刻まれている。

北前船の模型(多度津町立資料館)
北前船の模型(多度津町立資料館)

 熟練の船乗りも嵐に遭えば「板子一枚下は地獄」で、大金をもたらす北前船も沈めば全財産を失う。船主らは神社や寺院を建て、航海の安全を祈った。今に残る多度津の歴史的な街並みは、日本海の荒波を越え、人・物・文化を運んだ男たちの夢を語り伝えている。 北前船が大きな利益を生んだのは、当時の国内の地域間価格差による。

 北海道のニシンは西日本で綿の肥料として高く売れ、一方、西日本の古着は北日本で高く売れた。上方でニシンを売って空になった船に古着を積み込み、北日本で売る、押して引いて木を切るのこぎりのように、行きも帰りも商売をする北前船は「のこぎり商い」とも呼ばれた。

 北前船により発展した港には、廻船問屋や商家、蔵など、大規模な建物が残り、町は小路に沿って家が軒を連ねている。船乗りに安らぎと解放感を与えた花街や、日和を見た小高い山、航海の安全を祈った神社仏閣などは北前船がもたらした風景である。

 明治22(1889)年、香川で最初、四国で2番目に鉄道が敷設(ふせつ)されたのも多度津―琴平間(16・4㌔)の私鉄讃岐鉄道で、金毘羅参りの参拝客を運んだ。宇高連絡船が運航するまで、讃岐の玄関口は事実上多度津で、多度津藩による陣屋と港の建設が、香川の近代化に大きな役割を果たしたのである。

 讃岐鉄道は国有化を経て予讃線と土讃線の一部になり、JR多度津駅舎の北側には8620形蒸気機関車が展示されている。

(写真と文・多田則明)

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