
内村鑑三の再臨論を聞いて共感し、熱狂的になった人たちがいた。狂って非常識になった人もいたようだ。そのような婦人が二人いたという。一人は訪ねて来てこう語った。
「再臨のキリストは私の恋人です。内村先生は聖書の研究など止めてしまって、私と私の恋人の研究に従事しなさい」
このエピソードは1919年2月21日の「日々の生涯」(『聖書之研究』第224号)で綴(つづ)った話で、内村はこうコメントしている。
「困ったものである。しかしながら迷信を生むだけの信仰でなければ取るに足らない。反対のよき材料であろう」
また「百人の狂人がでてきても、一人の内村鑑三の偉大さは決して価値を減じない」(『新小説』3月号)と讃(たた)えたのは沖野岩三郎で、小伝「愛国者内村鑑三」(『雄弁』大正8年4月10日)の中で、「日本中に内村だけの信仰を有する者は珍しくない。彼が嘗めただけの生活難を嘗めた者はいくらもある。しかし彼が有するだけの学力を有する牧師は少ない」とその知的背景の大きさを讃えた。
内村自身も「聖書のみを研究して信仰が硬化するおそれがある。信者は時々文学をもって人文化(ヒューマナイズ)され、天然科学をもって理性化(ラショナライズ)さるるの必要がある」(「日々の生涯」1921年10月21日)と考えて、地理学、地質学、動物学、哲学などの書も読んでいた。
最も好んだのは天文学であり、さらに好んだのは天体観測そのもの。キリスト教伝道者の政池仁は「彼は実に一人のしろうと天文家であった。彼のように星にくわしく、また星を楽しんで観察した宗教家は当時の日本にはほかに一人もいなかった」(『内村鑑三伝』)と言う。
毎晩か数日おきに天を仰いでいた。
1920年8月21日、夜9時と11時の間、内村は東京市外の柏木今井館の前庭で、白鳥座アルフハ号とカムマ号とを覗(のぞ)いていたら、大異象を目撃した。
同月27日に東京天文台の井上四郎が内村を訪ねてきたので、このことを話すと、「内村さん、あなたは新星を発見したのです」と説明してくれた。だが、内村は天文台には報告していなかった。
「氏の談話に照らしてみてこの度白鳥座に現はれし新星発見者の名誉はわずかの注意で余に落ちたのである事がわかって、残念であった。此の名誉は自分ながら与りたかった」と記し、また「何もこれをもって世界の終末、キリスト再臨の前兆と見なすのではない。無類の宇宙の大異象の常に起こりつゝあるを示すのである」(同8月27日)。
内村が自宅の今井館で「星之友会」を開いたのはその年の4月2日、123名もの人々が集まった。星に関係あるイザヤ書40章26節とアモス書5章1~8節を解説し、その後、井上四郎に天文学の講義をしてもらったという。
「目を高くあげて、/だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、/おのおのをその名で呼ばれる。/その勢いの大いなるにより、またその強きがゆえに、一つも欠けることはない。」
イザヤ書の箇所だが、星々を示して創造主の御業を讃えている。内村も創造主のなされる御業に思いをはせたのだろう。
(増子耕一、写真も)





