
先の大戦は昭和天皇の御聖断によって終結したが、そこに至るまでの道のりは簡単ではなかった。本土決戦を主唱する陸軍を中心に継戦派が頑として存在した。そんな中、昭和天皇の絶大なる信任を得て、終戦へと導いたのが鈴木貫太郎首相だ。
ミネルヴァ日本評伝選の一冊として2016年に刊行された小堀桂一郎著『鈴木貫太郎』は、この救国の宰相の事績を記した決定版的評伝である。
下総(しもうさ)関宿の領主・久世氏の家臣を父に生まれ、海軍兵学校に進み、海軍軍人となって、水雷の専門家となり、日清戦争、日露戦争に従軍した若き日。連合艦隊司令長官、軍令部長という最高の顕職を務めた壮年期。そして侍従長時代には二・二六事件に遭遇し、九死に一生を得、首相として終戦工作の大業を成し遂げ、昭和23年、81歳で祖国の行く末を思いつつ世を去るまでが描かれる。
日清戦争で威海衛の水雷攻撃に参加し鬼貫太郎のあだ名を付けられたり、軍政家となって様々な場面で見せる硬骨漢ぶりなどが興味深い。侍従長職を受けるに際しては、それが栄転に当たるなら受けるつもりがなかったことなど、その人柄を雄弁に物語る。それらのエピソードは終戦を前にした難しい状況の中で、なぜ鈴木が天皇の信任に見事に応え得たかを理解するのを助けてくれる。
本書のハイライトと言うべきところは、やはり小磯内閣の退陣を受けて首相に就任し、終戦工作に当たるところだ。著者がまず注目するのは、昭和20年6月8日の帝国議会での施政方針演説。その中で、鈴木は、元駐日大使で知日派のジョセフ・グルー米国務次官を念頭に、日本に和平の意思があることを示唆する「暗号」を、国内の和平反対派に感づかれないよう、巧妙に盛り込んだのである。
最大の山場は、ポツダム宣言の受諾を巡り、いかに重臣たちの意見を天皇の意向に従ってまとめるかだ。最初の御前会議でいったんは宣言を条件付きで認めることに決まるが、「国体護持」が保障されるかどうかを米側に照会したことに対する、いわゆる「バーンズ回答」を巡り、平沼騏一郎など受諾拒否の論が再び強まる。
この時、鈴木は頑として口を閉ざす。そのため鈴木は平沼に同調したなどと誤解されるが、著者は鈴木は「玄黙」を貫いたと指摘する。
本書の副題「用うるに玄黙より大なるはなし」は、鈴木が愛読していた兵書『六韜(りくとう)』にある言葉で、著者は「この『玄黙』こそ鈴木の終戦工作に終始一貫底流してゐた戦略」であると解説。「要するに決して肚の裡を明かさず、手の裡を見せないのが治世の要諦だといふことである」と述べる。
二・二六事件で鈴木は4発の銃弾を受け、反乱将校が止(とど)めを刺そうとする。しかし、たか夫人の言葉と、その場に現れた決起将校のリーダーの一人で鈴木と面識があり、その度量の広さに敬服していた安藤輝三の制止によって命拾いをする。この重厚でエピソード豊かな評伝を読みながら、鈴木貫太郎という明治人に託された天命というものを思わざるを得なかった。
(特別編集委員・藤橋 進)





