
600万人のユダヤ人大量虐殺を実行したヒトラー、数千万人を粛清したスターリン。ドイツとソビエト・ロシアで人類史上かつてないほど人命を奪った二つの全体主義が、どのような過程を経て生じたかを緻密に分析したハンナ・アーレントの『全体主義の起原』(全3巻)は、現下の世界情勢あるいは国内情勢を理解する上で、貴重な教訓と示唆を与えてくれる名著である。
同書は1.反ユダヤ主義、2.帝国主義、3.全体主義、の3部作となっていて、3巻目で全体主義を扱っている。
全体主義的な支配の成立にとって必要不可欠な要素は、「個人化とアトム化」とアーレントは指摘する。「アトム化」とは、「大衆の中の孤立した人間」という意味で、「共同の世界が完全に瓦解して相互にばらばらになった個人から成る大衆」のことであり、「単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何者にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会が成立したとき初めて、全体的支配はその全権力を揮って何ものにも阻まれずに自己を貫徹し得るようになる」とアーレントは述べている。
全体主義の指導者にとって必要なのは、弁舌のうまさやカリスマ性よりも、「経験可能な現実の中から虚構の世界を築くのに必要な要素を探し出し、それらを検証可能な経験から切り離された領域の中に持ち込んで利用する技」とアーレントは分析する。真実らしさの要素を集めて、矛盾のない首尾一貫性を作り上げる。社会の中に居場所を失いアトム化した大衆は、そうした首尾一貫性の中に自己確認の機会を見いだし、時に熱狂して身を捧(ささ)げるようになる。それは最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれると思えるからである、とアーレントは述べている。
ドイツを見れば、ナチズムは当時世界で最も民主的と言われたワイマール憲法下で生まれ、国民の80%の支持を得た。ヒトラーは全権掌握後もワイマール憲法を破棄せず、民主的憲法を保持したまま、絶対悪と言われるホロコーストが行われた。このように全体主義はあくまでも合法的に大衆の支持を得て誕生するということは知っておく必要がある。
また、全体主義という虚構の世界を作り上げるには嘘(うそ)に頼るしかなく、綿密な矛盾のない嘘を組織的に作り上げ、指導者の絶対的な無謬(むびゅう)性が揺らぐことのないように嘘を重ねていく。非全体主義の世界が犯した最大の失敗は、このシステムを見抜けなかったことにある、とアーレントは語る。
全体主義体制はその倒壊後も全体主義的傾向は十分に生き残るだろうし、社会のさまざまな場面でその傾向が見受けられるとアーレントは警鐘を鳴らす。例えば宗教一つ取ってみても、教祖を神格化し、その無謬性を強調して批判を許さず、教義や組織の方針に信徒を従属させるようなものは全体主義的傾向と言えるだろうし、昨今の新しい指導者による熱狂的な保守回帰の政治運動にしても、常にそこには全体主義的な危うさが潜んでいることは心に留めておく必要があるだろう。






